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光石介太郎 : ミニ英和和英辞書
光石介太郎[みついし かいたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

光石介太郎 : ウィキペディア日本語版
光石介太郎[みついし かいたろう]

光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年6月9日 - 1984年2月20日)は、日本小説家推理作家福岡県生まれ。『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に発表した怪奇幻想ものの探偵小説で知られる。
本名は光石太郎(みついし たろう)。探偵作家としてのペンネームは、「光石介太郎」以外に、鶏山文作(とりやま ぶんさく)、雞山稲平(とりやま いなへい)がある。純文学を志してからは、青砥一二郎(あおと いちじろう)というペンネームも使用したが、晩年には光石介太郎名義を再び使用している。
== 経歴 ==

=== 生い立ち・探偵作家時代 ===
1910年6月9日、福岡に生まれる。二卵性双生児であり、もう一人は女の子だった。父は鐘淵紡績(後のカネボウ)の取締役や南米拓殖株式会社の社長などを歴任した福原八郎〔福原八郎については、「ブラジル物故先駆者列伝 福原八郎 」などを参照のこと〕だが、介太郎は生まれてすぐに岡山に住む遠縁の光石家へ養子に出され、看護婦だった独身の養母のもとで育った。
介太郎が小学生の時に養母がなくなり、その後は親戚の間を転々とする。実父からの仕送りは介太郎本人には渡らず、困窮した生活を送った。旧制の福岡県小倉中学校を卒業。
1931年、大阪で暮らしていたときに、短編小説「十八号室の殺人」を書きあげ、当時まだ面識のなかった江戸川乱歩宛てに郵送する。これが当時の『新青年』編集長だった水谷準の手にわたり、同年の『新青年』11月号に掲載された。その後3年間小説は書かなかったが、1934年7月、東京への永住を決意して上京し、短編小説「霧の夜」を執筆。介太郎はこの作品も乱歩に見てもらおうとしたが、直接訪ねる勇気がなく、乱歩邸付近を何日にもわたって徘徊したのち、結局乱歩邸のポストに投げ込んだ。この作品は乱歩から称賛され、改稿を経たのち、『新青年』1935年1月号に掲載された。「十八号室の殺人」は本名の光石太郎名義で掲載されたが、「霧の夜」からは光石介太郎名義を使用した。その後も『新青年』には、鶏山文作名義の作品も含め、短編が何度か掲載されており、また『新青年』からは雑文の仕事なども請け負っている(中には、水谷準が考えた大谷主水という筆名で掲載されたものもある〔光石介太郎の回想エッセイ「名軍師と名将たち」(『幻影城』1979年7月号)参照〕)。この時期には乱歩邸をしばしば訪れ、まわりからは乱歩の弟子のように見られていた。
『ぷろふいる』1935年2月号に「綺譚六三四一」が掲載されると、『ぷろふいる』でデビューした新人に声をかけて、YDN(ヤンガー・ディテクティブ・ノーベリスト)ペンサークルを結成。毎月1回、新宿の高級喫茶店ウェルテルの3階で会合を開いたが、噂を聞きつけて次第に集まる同人も多くなっていった。また会合の日以外でも、メンバーは介太郎のアパートを毎日のように訪れ、探偵小説談義を交わしていた。このサークルには平塚白銀石沢十郎中村美与西嶋亮金来成中島親らが参加したが、メンバーの中で唯一『新青年』に作品が掲載されたことのある介太郎が、自然と中心人物となった。1935年7月号で結果が発表された『ぷろふいる』創刊2周年記念の特別懸賞募集では、入選した5人のうち4人がYDNペンサークルのメンバーであり(光石介太郎、平塚白銀、石沢十郎、金来成)、このころがYDNペンサークルの最も華やかだったころだと介太郎は述懐している〔光石介太郎の回想エッセイ「靴の裏――若き日の交友懺悔」(『幻影城』1976年2月号)参照〕。
このころには、『新青年』や『ぷろふいる』といった探偵雑誌以外にも、小栗虫太郎の紹介で『オール讀物』に短編小説「鳥人(リヒトホーフェン)誘拐」を発表したり、甲賀三郎の紹介で月刊誌『あけぼの』に短編小説をいくつか発表したりしている〔。また、『新青年』1939年4月号で探偵作家の文体模写の企画があったときには、水谷準の指名で介太郎が乱歩を担当し、乱歩の文体模写小説「類人鬼」を発表している。
このころ、乱歩から純文学の道に進むことを勧められ、世界の文学を耽読し、純文学への志を次第に固めていく。
上京後、介太郎は東京外国語学校ポルトガル語学科に入学したが、学費が払えなくなり中退。1937年、報知新聞社に入社。5年後に退社した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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