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僧サン : ミニ英和和英辞書
僧サン[そうさん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. monk 2. priest 

僧サン : ウィキペディア日本語版
僧サン[そうさん]

僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃) - 大業2年10月15日606年11月20日))は、中国・代の僧。禅宗の第三祖。
「璨」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」のことである。唐の玄宗皇帝により『(鑑)智禅師』の諡を賜った。

== 略歴 ==
五灯会元』の一つ、『景徳傳燈録』第三巻に「三祖僧璨大師悟道因縁」と呼ばれる物語が伝わっている。
天平2年(525年)に当時、居士で重い疾病を患っていた僧璨が第二祖慧可と会いまみえ会話を交えた。そして、ついに悟りに至った。その後すぐに、光福寺で具足戒を受け、それ以後、彼の疾病はことごとく良くなり、ともに祖師(達磨)に二年間あまり仕えた、という物語である。
その悟道に至った日は、同年(525年)3月18日であった。
禅の第二祖慧可と第三祖僧璨に関わる記述は『続高僧伝』第21巻にある『唐蕲州双峰山釈道信伝』に、「すでに(伝)法を負っていることを聞き、それで いずことも知れぬ所から 向かい赴いて来た二僧が、舒州(現、安徽省)の皖公山で修禅した」という趣旨の記述がある〔『続高僧伝』卷21「唐蕲州双峰山釈道信伝」“又有二僧 莫知何来 入舒州皖公山静修禅业 闻而往赴 便蒙受法”〕。
(北斉)天保3年 (552年)慧可は、僧璨に衣法を授けた。僧璨は、当時すでに40歳を超えていた。
(衣法:伝法の信を表す袈裟を与える事。禅では、師匠が弟子に対し、法を伝えた証に衣を授ける。伝衣は同時に伝法でもあることを意味する。)
以後、彼は すぐに 舒州の皖公山に隠居する。四度吹き荒れた三武一宗の法難の内の一つである、北周武帝560年-578年)の廃仏政策の時代へとなり、太湖県司空山に隠居。居場所は常に定まっているという事は無かった。
そして、10年以上の年月に渡って、そのもとを訪れる者は無かった。
の時代、開皇十二年(592年)、十四歳の沙弥 道信 は弟子入りに来て、言った。
*道信“和尚様、何卒、慈悲たれ賜いて 悟りへの法門をほどき与え たまへ。”
*僧璨“誰があなたを縛ったか?”
*道信“縛った人はいません。”
*僧璨“では、今更 何を解くというのか?”
そこで道信は大悟した。
僧璨は道信に「妙法蓮華経」の“会三帰一”理論と仏法理論を伝授。このことが道信に与えた影響は極めて大きかった。
開皇十三年(593年)、慧可入滅。道信の弟子入りと ほとんど、入れ違いのことだった。
道信は、修禅の労に服すこと 九年、後 吉州(江西省)にて戒受。僧璨は常に道信に玄々微妙たる禅の理、真髄を伝授し続けた。
時機成熟し以後、僧璨は道信衣法
その時、道信が読んだ偈は次の如きものであったことが今に伝わっている。「花の種、これ田地 田畑にて 瑞々しい若花を大地より生ずる。もし、種を蒔く者がいなければ、花々に満ちていた大地は (これから)生じることもなく尽きてしまう。(仏法もまた同じで、いまこそ 法をひろめなけえばならない。)」
羅浮山(広東省)に布教。道信は僧璨の唯一の弟子で、僧璨は彼に厚い期待を預けた。
二年後、僧璨は、もとの舒州に帰着した。
多くの人々への説法後、大樹の下で言ったと言われる。
「生死のあり方は自由だ!(結跏趺坐して入滅される方も多い。しかし、私は今日立って歩み進むのだ!)」
樹枝に手をかけ、立ったまま僧璨は臨終を迎えた。それは、隋の熔帝の代、大業2年(606年)のことだった。
後の世、唐の玄宗皇帝は『智禅師』の「諡」(贈り名)を贈った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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