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佐竹義敦 : ミニ英和和英辞書
佐竹義敦[さたけ よしあつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

佐竹義敦 : ウィキペディア日本語版
佐竹義敦[さたけ よしあつ]

佐竹 義敦(さたけ よしあつ、寛延元年閏10月4日1748年11月24日)- 天明5年6月1日1785年7月6日))は、出羽久保田藩の第8代藩主。第7代藩主・佐竹義明の長男。母は第5代藩主・佐竹義峯の娘。初名は義直(よしなお)。幼名は秀丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、右京大夫。号は曙山(しょざん)。画家としても名高い。
== 生涯 ==

=== 文人大名 ===
宝暦8年(1758年)5月11日、父・義明の死去により、家督を相続した。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治御目見する。同年12月9日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。明和2年(1765年)4月15日、初めてお国入りの許可を得る。この頃の久保田藩では飢饉や農村の荒廃、佐竹騒動などにより藩政が混乱していたが、親交のあった土佐藩主・山内豊雍薩摩藩主・島津重豪と合作の絵画も残っている。
当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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