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伊勢ノ濱慶太郎 : ミニ英和和英辞書
伊勢ノ濱慶太郎[いせのはま けいたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はずみ]
 【名詞】 1. (1) bounce 2. spring 3. rebound 4. (2) momentum 5. inertia 6. (3) spur of the moment

伊勢ノ濱慶太郎 : ウィキペディア日本語版
伊勢ノ濱慶太郎[いせのはま けいたろう]
伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9日 - 1928年5月17日)は、東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)所属の明治末期から大正時代に活躍した元大相撲力士。最高位は大関。本名は中立 慶太郎(なかだち けいたろう)。現役時代の体格は、身長168cm、体重105kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ
== 来歴 ==
父は明治中期(1880年代)に活躍した幕内力士の伊勢ノ濱荻右エ門で、祖父は行司9代木村庄太郎、従兄には年寄根岸治右エ門がいるという相撲一家の生まれ。日本橋の酒店に奉公していたが父親譲りの力自慢で、18歳の時に根岸に入門した。1902年1月場所初土俵。しかし根岸の部屋には土俵がなかったため名門友綱部屋に通い、太刀山國見山らの胸を借りて成長した(のちに友綱部屋へ移籍)。出世は早く1905年5月場所十両に昇進、1906年5月場所に入幕した。
しかしこの頃から素行が悪化、新入幕の場所は1勝しか挙げられず(3敗15休)、翌1907年1月場所には脱走をしてしまった。戻ったときには頭を丸めて周囲を驚かせたという。改心したかその後は稽古に励み、関脇に昇った1910年頃からは酒や煙草も断っていっそう精進に努めた。横綱常陸山を破るなど上位で活躍を続け、1913年5月場所、関脇で9勝1敗の好成績を収めて場所後に大関に昇進した。5年余りにわたり大関の地位にいたが横綱昇進は果たせず、晩年は神経痛リウマチを患い1919年1月場所限りで引退、年寄中立を襲名した。
背は低く軽量だが筋肉質の体で力が強く、腰も重く粘り強かったという。左四つからの寄りや押し、上手投げなど俊敏な取り口を見せ、大関駒ヶ嶽や横綱2代西ノ海らの大兵を振り回して観衆を驚かせるほど勝負度胸もよく、江戸っ子力士ということもあって人気は高かったが、勝負度胸の余り慎重さを欠いて不覚を取ることもあった。土俵に上がれば力水は一度しかつけず、待ったもしないなど土俵態度が立派で力士の模範といわれた。
引退後は相撲協会の理事・検査役も務め、頭脳明晰にして温厚な人柄から人望も厚かったが、1928年5月17日、宿泊先の静岡県沼津市の旅館で服毒自殺してしまった。
趣味は小説の執筆で雑誌にも掲載された。明荷にも原稿用紙を入れていたという。妻に相撲茶屋「三河屋」(相撲案内所 十番)を経営させていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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