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任那日本府 : ミニ英和和英辞書
任那日本府[みまなにほんふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にん]
 【名詞】 1. obligation 2. duty 3. charge 4. responsibility 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

任那日本府 : ウィキペディア日本語版
任那日本府[みまなにほんふ]
任那日本府(みまなにほんふ)とは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀など〔日本書紀・巻第十四《雄略天皇八年二月》の条「伏請救於日本府行軍元帥等」、同巻第十九《欽明天皇二年四月》の条「与任那日本府吉備臣」など。〕〔日本書紀・巻第十九《欽明天皇二三年正月》の条「二十三年春正月。新羅打滅任那官家」という表記も見られる。〕に見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
== 概要 ==
倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として日本書紀に言及されているものである。
少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、大和王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。
#『日本書紀』をはじめ、中国朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する。(倭・倭人関連の朝鮮文献) (倭・倭人関連の中国文献)
#『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている〔従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中華人民共和国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。〕〔但し韓国・朝鮮の学会では他の解釈を取り否定されている。〕など、朝鮮半島での倭の活動が記録されている。
#新羅百済伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと〔門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社〕に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している〔早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会〕。
#幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である〔日本府の本部が置かれた加羅地域ではないので論難の余地があるという意見もある。〕、〔朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、5世紀-6世紀に移住して百済の臣下となった倭国の有力者一世の存在を主張した。また、田中俊明は、韓国の前方後円墳をもとに、造墓を推進したのは倭と頻繁に往来し、現地の倭の勢力とも交流・政治的な関係を持ったこの地域の特定の首長層の墓とし、直接的に倭人が造築したというより、倭と極めて密接な関係のある首長が造墓したとしつつ、この地域(全羅南道)は倭との関係も深く、倭への往来も頻繁にあり、また倭人の流入も多い地域であり、百済に対しては一定の距離を置いていた勢力が散在していたと述べている。このように全羅南道への倭の影響を認める見解が多く出ているが、倭国が当該地域に統治機関を直接的に持ち、民政統治を行ったと定義する「任那日本府」については否定的意見もある(吉田 1997)〕、〔韓国の学会では、現在までに発見された前方後円墳の数が14基で伽耶ではなく馬韓が存在した全羅南道にあること、また、発掘された遺物に倭系のもの、百済系のもの双方があることから、475年高句麗の南下により首都の漢城を奪われたため、百済の東城王は倭国の軍事力を利用しようと中級倭系百済官僚を雇ったものと主張している。更に全羅南道で倭系百済官僚の墓が発見されたことは逆に任那日本府の存在がなかった証拠になると主張している。「박천수 교수,주보돈 교수 公営放送KBS歴史スペシャル」〕。
#宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している。
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抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「任那日本府」の詳細全文を読む




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