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今宮町 : ミニ英和和英辞書
今宮町[いまみやちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こん]
 【名詞】 1. this 2. now
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road 

今宮町 : ウィキペディア日本語版
今宮町[いまみやちょう]

今宮町(いまみやちょう)は、かつて大阪府西成郡にあった町。現在の大阪市西成区の北東部にあたる。
本項では今宮町の前身となる今宮村についても記述する。なお今宮村の時代には、現在の浪速区南東部も区域に含んでいた時期がある。
== 概要 ==
この地域は、津江の庄、下って、今宮庄、そして、今村と言われていた時期がある。津江の庄と言われていた頃には、日々宮中に鮮魚を献上する漁村として存在し、下って徳川期には、鮮魚の献上は正月のみとなったが、麦や棉の栽培地として農村となった。
今宮の地名は、西宮戎神社から分霊してこの地に今宮戎神社を創設した際、西宮戎に対する新しい神社の意で今宮と称されたことが由来とする説や、もともと今村と呼ばれていた地域に西宮戎の分社ができたため「今村の宮」略して「今宮」となったとする説などがある。しかしいずれの説も伝承にとどまり、地名の由来についてははっきりとは確定されていない。文献の上で確認される今宮の地名は、戦国時代1522年の文書にあるものが最古となっている。
中世頃までは海辺に面していたと考えられる。海道・甲岸・入船(以上、現在の西成区萩之茶屋付近)、釜ヶ崎(現在の浪速区恵美須西付近〔20世紀初頭(明治時代中期)以降は、現在の西成区萩之茶屋付近を指す通称へと変化している。〕)・曳舟(現在の天下茶屋北付近)・今船(現在の西成区天下茶屋1丁目付近)など、水や海を連想させるような旧地名がいくつか残っていたことから、海辺に面していた漁村だった痕跡がうかがわれる。
江戸時代から明治時代にかけては西成郡今宮村を形成。大坂市街(大坂三郷)に米や蔬菜類を供給する近郊農村「畑場八ヶ村〔西成郡吉右衛門肝煎地・西高津村・難波村・木津村・今宮村・勝間村・中在家村・今在家村〕」のひとつに数えられ、蕪や瓢箪の産地で知られた。集落は現在の恵美須西・戎本町に形成され、今宮新家と呼ばれる枝郷が現在の天下茶屋北にあった。また、日本橋筋(現在のでんでんタウン)の裏側には貧民街も形成されていた。
1889年に今宮村単独で町村制を施行。当時の今宮村は、現在の地形からは正確な境界をたどるのは困難になっているが、おおむね現在の浪速区役所付近を北端・西成区役所付近を南端とし、東は紀州街道付近・西は現在の国道26号付近にあたる、南北に細長い村となっていた。
その後今宮村北部は、大阪市と隣接していることで市街化した。その一方で村南部は農村地帯だった。1897年に大阪市の第一次市域拡張がおこなわれ、今宮村のうち大阪鉄道(現在の関西本線大阪環状線)の線路より北側の地域が大阪市南区に編入された。1900年大字改編により以下の13町が起立。
* 東関屋町・西関屋町・舩出町・広田町・北高岸町・南高岸町・恵美須町・宮津町・貝柄町・馬渕町・水崎町・北霞町・南霞町
1925年の分区により浪速区の一部となった。現在の日本橋の南西部・日本橋西・敷津東の東部・戎本町・恵美須西・恵美須東に概ね該当する。
一方、今宮村の南部は、同じく北部を大阪市に編入された西隣の木津村を編入し、元今宮・元木津の2大字を編成した。大字は1913年に「元」の字を廃して今宮・木津となり、1922年の大字改編により以下の37大字となった。
* (今宮→)東田・今池・東今船・海道・東入船・西入船・甲岸・東萩・曳船・西今船・三日路・苔山・北神合・南神合・北吉田・南吉田・東四条・西四条・西萩・花園・東皿池・西皿池
* (木津→)北開・中開・南開・出城通・長橋通・鶴見橋北通・鶴見橋通・旭北通・旭南通・梅通
* (今宮・木津双方→)梅南通・松通・橘通・桜通・柳通
村分割・合併後の今宮村の範囲は、現在の町名ではおおむね、西成区太子・萩之茶屋・天下茶屋北・天下茶屋(1丁目の南東部と2・3丁目の東部を除く)・花園北・花園南・岸里1丁目・潮路1丁目・北開・中開・南開・出城・長橋・鶴見橋・旭・梅南・松・橘に該当する(ただし、旧村の範囲と現在の住所表示は必ずしも一致していない)。
村の分割・合併直後は人口1000人程度の小さな村落だった。村の規模が小さすぎて行政運営にも支障が出たため、村発足当初は西隣の津守村と行政組合を設置して村行政にあたっていた。しかし行政組合は1903年に解消し、今宮村単独の村政を敷いた。
その後大阪市の発展に伴い、大阪市と隣接しているという地理条件から人口が急増し、大正時代に入って人口が7万人以上になった。今宮村は1917年9月1日に町制を施行し、今宮町となった。
1925年4月1日に大阪市の第二次市域拡張がおこなわれ、西隣の津守村、南隣の玉出町粉浜村とともに新設の大阪市西成区へ編入された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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