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亜細亜号 : ミニ英和和英辞書
亜細亜号[あじあ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

亜細亜 : [あじあ]
 (n) (uk) Asia
: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 

亜細亜号 ( リダイレクト:あじあ (列車) ) : ウィキペディア日本語版
あじあ (列車)[ごう]

あじあは、日本の資本・技術で経営されていた南満州鉄道が、1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで大連駅 - 哈爾濱(ハルビン)駅間の約950kmを連京線・京浜線経由で運行していた特急列車である。超特急とも呼ばれた。
列車は流線形のパシナ形蒸気機関車と専用固定編成の豪華客車で構成される。そのほとんどすべてが日本の技術によって設計・製作されており、当時の日本の鉄道技術水準を示すものとして重要である。(→新幹線の歴史も参照)
== 沿革 ==



1932年(昭和7年)の満州国成立当時、黄海に突出した港湾都市大連と、首都新京との間は南満州鉄道連京線によって結ばれており、大連港を発着する日本への定期船と連絡していた。
「あじあ」は、この区間の速度向上のため、世界水準を目標に計画された列車である。1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけて、比較的短期間で開発が進められた。「キング・オブ・ロコモティブ」として知られた設計責任者・吉野信太郎は、アメリカン・ロコモティブ社に2年半も留学。帰国後の1927年(昭和2年)に「パシコ」形を設計し、その後は満鉄機関車のほとんどを手がけた。
当時の満鉄理事には、軌間1435mmの標準軌(当時の広軌)鉄道推進派の技術者島安次郎もいた。当時の日本国内の標準軌間は1067mmの狭軌であるため、スピードアップには自ずと限界があった。「あじあ」は、満洲の地でその夢を実現させようと考え、開発したものともいえる。しかし島は、「あじあ」用の「パシナ」形に用いられた米国流の設計手法をまったく身に付けておらず、実際に参加したかどうかは疑わしい。後に、島は、戦前の新幹線計画である弾丸列車計画を推し進めることになるが、孫弟子にして子息である島秀雄が設計した高速蒸気機関車もまた米国流の設計手法ではなくドイツ流、それも1920年代の設計手法での設計に過ぎない。「パシナをちょっと良くすればいい」と述懐していたが、設計手法が異なるので意図が不明である。
1934年(昭和9年)11月1日から運転を開始した「あじあ」は最高速度130km/h〔運転開始直前に南満州鉄道が発行したパンフレットは、機関車の最高許容速度を130km/mとしつつ、列車自体の最高時速は110kmと書いている。南満州鉄道株式会社『流線型特別急行列車「あじあ」』(1934年発行。2013年復刻、『新幹線トレジャー・ボックス』所収)〕、大連 - 新京間701kmは所要8時間30分で表定速度は82.5kmに達した。これは、当時日本の鉄道省で最速の特急列車だった「」(最高速度95km/h、表定速度69.55km/h)を大きく凌ぎ、戦前の日本最速である阪和電気鉄道超特急(表定速度81.6km/h)に匹敵する蒸気機関車牽引による高速運転である。ただし満鉄の軌道が標準軌の平坦線という好条件を考慮すると、速度的には当時の鉄道先進国における標準並でしかなかったことも事実である。例を上げると、当時アメリカ(南部)には最高速度180km/hを超す蒸気機関車牽引列車が存在し、ヨーロッパではイギリスで1934年登場のA4型により203km/hが記録され、営業列車が恒常的に160km/hを超え、ドイツ気動車によって最高速度150km/hを超す高速列車が運行されていた。
なお、「あじあ」の名称は、30,066通の懸賞応募の中から決定されたものである〔『流線型特別急行列車「あじあ」』〕。
1935年(昭和10年)9月には新京からハルビンまで運転区間が延長され、大連 - ハルビン間943.3kmを12時間30分で走破している。当初この区間は軌道が脆弱なため、軸重の大きい「パシナ」形機関車は使用できず「パシイ」形機関車で牽引していたが、軌道が改良された後も機関車は「パシロ」が用いられ、最後まで新京 - ハルビン間に「パシナ」形は投入されなかった。
1938年(昭和13年)10月30日に下り「あじあ」が連京線太平山駅で転覆し、乗務員1名が死亡、2名が重傷を負う事故が発生したが、乗客は軽傷のみであった。
1941年(昭和16年)7月関東軍特種演習のため一時「あじあ」の運転を休止。12月に運転を再開するが、1943年(昭和18年)2月28日太平洋戦争大東亜戦争)激化に伴い運転を休止。同年4月には全線で最高速度を引き下げて輸送力を増強する方向のダイヤ改正が行われ、以後「あじあ」の運転が再開されることは無かった。
戦後、一部の客車は満洲国内に侵略してきたソビエト連邦に接収されたものの、機関車・客車の一部は中華民国内に残り、その後中華人民共和国がそれを引き継いだ。現在でも若干数の機関車・展望車などが同国内に保管または留置されて現存している〔一例として、大連鉄道国際旅行社所有の車庫(大連市)にパシナ型機関車が保存されているとの報道があった。※出典:西日本新聞(2006年10月16日朝刊)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「あじあ (列車)」の詳細全文を読む




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