翻訳と辞書
Words near each other
・ 並木元町
・ 並木克巳
・ 並木北駅
・ 並木千柳
・ 並木千柳 (初代)
・ 並木史朗
・ 並木学
・ 並木学院高校
・ 並木学院高等学校
・ 並木宗助
並木宗輔
・ 並木家の人々
・ 並木小学校
・ 並木徳之
・ 並木心
・ 並木恵美子
・ 並木愛枝
・ 並木慶
・ 並木政幸
・ 並木敏成


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

並木宗輔 : ミニ英和和英辞書
並木宗輔[なみき そうすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [へい]
 【名詞】 1. line-up 2. in a row 3. rank with 4. rival 5. equal
並木 : [なみき]
 【名詞】 1. roadside tree 2. row of trees 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 

並木宗輔 : ウィキペディア日本語版
並木宗輔[なみき そうすけ]
並木 宗輔(なみき そうすけ、元禄8年〈1695年〉〜 寛延4年9月7日1751年10月25日〉)とは、江戸時代浄瑠璃作者。一時期、並木千柳(なみきせんりゅう、初代)と称した。浄瑠璃の三大傑作といわれる『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』の作者(合作)として名高い人物である。
== 経歴 ==
もと備後国三原(現在の広島県三原市)にある臨済宗成就寺の、断継慧水という僧侶であった。三原の出身ではなかったらしく、大坂生れともいわれるがその出自については明らかではない。享保9年(1724年)、30歳のころ還俗して大坂に移り浄瑠璃作者となった。なぜ還俗して浄瑠璃作者になったのか、その経緯についても不明である。通称を松屋宗輔と称したが、この「松屋」とは大坂に移った際に入った養子先(または婿入り先)の屋号ではないかという。
当初並木宗助と名乗って豊竹座付の作者西沢一風の門人となり、享保11年(1726年)初演の『北条時頼記』に初めて作者として名をあらわしているが、その次の作『清和源氏十五段』で立作者(合作における監督責任者)となっている。元文2年(1737年)の正月以降、名を並木宗輔と改め単独作、合作も含めて多くの作を著した。この豊竹座時代の宗輔の作風は人間の本能の激しさ、罪業の深さ、封建社会の矛盾などを緻密な構成と写実的な筆致で描き出し非常に暗いといわれる。
寛保元年(1741年)、江戸に下りおよそ一年ほど滞在する。その間に江戸肥前座で活動、『石橋山鎧襲』を為永太郎兵衛との合作で執筆などしている。翌年8月に大坂に帰るが豊竹座を離れ、大坂で歌舞伎作者として安田蛙文らと『大門口鎧襲』などの歌舞伎の脚本を書いた。延享2年(1745年)再び浄瑠璃作者に復帰したが、豊竹座とはライバルであった竹本座に在籍し名を並木千柳と改め、二代目竹田出雲三好松洛らとの合作で『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』のほか、『軍法富士見西行』、『源平布引滝』、『双蝶々曲輪日記』などの傑作を生み出した。これら作品の立作者についても諸説あるが、作風や経験から、いずれの作品も実質の立作者は宗輔とする説もある。寛延3年(1750年)竹本座から再び豊竹座に戻り、並木宗輔の名に復したが翌年の寛延4年9月、『一谷嫩軍記』を執筆中病により没した。享年57。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「並木宗輔」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.