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三春藩 : ミニ英和和英辞書
三春藩[みはるはん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
三春 : [さんしゅん]
 (n) three spring months
: [はる]
  1. (n-adv,n-t) spring 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

三春藩 : ウィキペディア日本語版
三春藩[みはるはん]
三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在したの一つ。藩庁は三春城である。
== 概要 ==
戦国時代には田村氏が本拠を置いたが、豊臣秀吉の奥州平定(奥州仕置)時に改易され、蒲生氏郷の領域となる。1627年蒲生氏に代わって伊予国松山から加藤嘉明が移封され、会津に入ったとき、嘉明の次男・明利が3万石で三春に入った。同年、領民による新領主反対の一揆がおこっている。翌年、二本松から松下長綱が3万石で入る。
その後、常陸国宍戸より秋田氏が5万石で入る。
戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が奥羽列藩同盟に変貌した為、これに加わる。官軍迅衝隊による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄ともとれる背信的行為、これに加え平潟の官軍の上陸により防衛が不可能と判断され、断金隊隊長美正貫一郎の尽力や郷士河野広中の斡旋もあり無血降伏をする。これにより逆賊となることは回避され、藩内を兵災から守り、多くの人命が救われ、所領も安堵されて維新を迎えることが出来た。
後述のように戦闘行動中の直接的な裏切り(列藩同盟軍への攻撃行為)に関しては十分に証明できないものの、 三春藩の新政府軍への帰順 の経緯については、列藩同盟側の立場から、また当時の武士道的価値観から道義的に許容しがたいものがあり、三春藩の降伏により窮地に追い込まれた二本松藩の展開した死闘との対比もあり、一般に「寝返り」「裏切り」との評価がなされている。
なお、三春藩が裏切ったとされる淺川の戦闘で「七月十六日、塩森主税棚倉屯集の官軍を進撃、三春、二本松、会津棚倉の兵を合併、奥州石川郡浅川古館山より進て浅川 の渡を隔て砲戦す、釜之子と申所より官軍会津の兵を破り浅川の後にでると、三春藩中途にして反覆す、頗る苦戦に及び、各藩共支る能はず(『仙台藩記-復古記』13巻57頁)」とあるが、『二本松藩史』には「十六日丹羽、奥野、野崎の諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊と合して浅川の敵陣を攻めむ、先頭終日、東軍利あらず。(69頁)」とあり前後が矛盾している。又、「七月十六日に至って同し近郷なる浅川という処へ、賊兵多く襲い来り、一挙に此処を攻破らんとせし事有り、此時浅川には土、彦の兵隊にて守りけるか、多くの賊兵寄ること均しく、大小砲を持って烈しく打立、 防戦さまさまに手術を尽くし時移るまで防ぐこといえども、今日の敵は大勢にして、また必死となって来たりし事なれば、その矛先は当り難く、既に危なくも見へし処へ、又此あたりなる釜之子に居し薩の兵具隊よりして、此砲声を聞つけ、何事の出来しやらんと馳著て来たりしか、今血戦の最中なるゆへ、直ちに敵のうしろの方より小銃を以って打ちければ、是にて敵は忽ち崩れ、討たるる者は数多く、皆散々に逃行けり、是より後は、此棚倉城の敗兵、再び此辺に足を留めず、皆々北方へ落行きしとなり(『復古記』13巻57頁)」と書かれており、通説の裏切りは史料の上では証明できない〔大山柏『補訂戊辰役戦史』 上巻 472頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三春藩」の詳細全文を読む




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