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ヴェルブジュドの戦い : ミニ英和和英辞書
ヴェルブジュドの戦い[う゛ぇるぶじゅどのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ヴェルブジュドの戦い : ウィキペディア日本語版
ヴェルブジュドの戦い[う゛ぇるぶじゅどのたたかい]

ヴェルブジュドの戦い(、 、)は、1330年7月28日にヴェルブジュド(現在のキュステンディル)近郊で起きたセルビア王国第二次ブルガリア帝国の戦闘である。
13世紀末から領土を拡張する新興勢力のセルビアに対して、バルカン半島の旧勢力であるブルガリアと東ローマ帝国は危機感を抱き、1327年に反セルビアの軍事同盟を締結した。3年後、セルビア軍とブルガリア軍はヴェルブジュドで激突し、ブルガリア軍は奇襲を受けてセルビアに敗北する。
セルビアの勝利は、その後の20年におけるバルカン半島での勢力図を形作ることとなった。敗北したブルガリアは領土こそ喪失しなかったものの、セルビアのマケドニアへの進出を許してしまう。かたや勝者であるセルビアはマケドニアに加えて東ローマ領のテッサリアイピロスの一部を支配下に置き、王国の最大版図を現出させた。
== 対立の原因 ==

皇帝コンスタンティン・ティフ(在位1257年 - 1277年)の長く不安定な治世の間、ブルガリアは東ローマから封土として認められていたスコピエを含む北マケドニアの領土を喪失していた。1280年代、ブルガリアと東ローマが内外で深刻な問題に直面している間、セルビアは南に勢力を伸ばし、北マケドニアに進出する。
1320年から1328年にかけて、東ローマ帝国では皇帝アンドロニコス2世と共同統治者アンドロニコス3世の間で内戦が起きており、セルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキはアンドロニコス2世を支持する見返りとして、いくつかのマケドニア内の要塞を獲得する。だが、内戦に勝利したアンドロニコス3世がアンドロニコス2世を退位させるとセルビアと東ローマの関係は悪化し、宣戦布告が無いまま戦争に突入したとも言える情勢になる。この状況下、セルビアは、プリレプといった北マケドニアの重要な都市を占領し、1329年オフリドを包囲した〔J. A. Fine. The Late Medieval Balkans. A critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. Ann Arbor, The University of Michigan Press, 1987, II, p. 271〕。
一方、ブルガリアの復興を望む皇帝ミハイル3世シシュマンは東ローマの内戦に対して、状況に応じて支持者を変え、1327年には東ローマの首都コンスタンティノープルを占拠する企てを立てた〔I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)、p.104〕。また外交の一環として、ミハイル3世は内戦中の1324年にウロシュ3世の姉妹である妻のアンナ・ネダを離縁して追放し、アンドロニコス3世の姉妹であるテオドラと再婚していた。
セルビアの急速な拡大に不安を覚えたブルガリアと東ローマは1327年5月13日に和約を締結するが、そこには明らかに反セルビアの意図が込められていた。1329年の君主間の会談の後、両国は共同でセルビアに対しての軍事行動を実施することを決定し、ミハイル3世は戦争の準備に取り掛かる〔Nicephori Gregoras. Historiae byzantinae ed. Schopen, I, Bonnae, 1829, I,391, 394;〕。ミハイル3世は、かつてセルビアに占領された西ブルガリアの奪回を望み〔Божилов. Фамилията Асеневци (1186-1460). С., 1994, I, № 23, с. 125; История, I,〕、セルビアの影響力の完全な排除とブルガリアと東ローマ間での解放地の分割を計画していた〔Бурмов. Шишмановци, с. 45 и бел. 281〕〔Историjа српског народа, I, с.507, бел 25〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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