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ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 : ミニ英和和英辞書
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世[う゛ぃっとーりおえまぬえーれ3せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 : ウィキペディア日本語版
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世[う゛ぃっとーりおえまぬえーれ3せい]

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III, 1869年11月11日 - 1947年12月28日)は、サヴォイア朝の第3代イタリア国王(在位:1900年 - 1946年)、初代エチオピア皇帝(在位:1936年 - 1941年)、初代アルバニア国王(在位:1939年 - 1943年)、初代モンテネグロ国王(在位:1941年 - 1943年)。軍事上の称号としては大元帥(1938年-1946年)を用いた。
儀礼称号にエルサレム王、キリキア・ アルメニア王、聖アヌンツィアータ騎士団総長、聖マウリッツィオ・ラザロ勲章総長、ガーター騎士団団員、マルタ騎士団団員、金羊毛騎士団団員がある。
イタリア王国の君主として大権を揮い、46年間という長期間の在位を通じてサヴォイア家の歴代当主の中でも特筆すべき治世を遺した。第一次世界大戦第二次世界大戦の双方で主要参戦国の国家指導者として影響を与え、後者に関してはファシズム運動を率いるベニート・ムッソリーニによる全体主義体制とも密接な協力関係を構築した。イタリア国王以外にエチオピア皇帝、アルバニア国王、モンテネグロ国王、クロアチア国王などの王位称号をサヴォイア家の権利とし、その版図を最も拡大したが、第二次世界大戦後の戦後処理において王政が廃止されてエジプト王国へ亡命した。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===

1869年11月11日、第2代イタリア王ウンベルト1世とその妃であるジェノヴァ公女マルゲリータの長男としてナポリの王領で生まれ、''ヴィットーリオ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・ジェンナーロ・ディ・サヴォイア''(''Vittorio Emanuele Ferdinando Maria Gennaro di Savoia'')と名付けられた。父から初代国王である祖父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名を冠したヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の名を与えられ、王太子称号としてはサヴォイア家が伝統的に法定推定相続人爵位としてきたピエモンテ公ではなく、新設されたナポリ公(''Prince of Naples'')に授爵された。イタリア統一(リソルジメント)の大義を強調する意味合いがあったものと推測されている。
ヴィットーリオは当時のヨーロッパ人としてはかなり小柄な体格で知られており、国民の平均身長を大きく下回る153cm程度であったという。ちなみに甥のアオスタ公アメデーオは198cmであったため、大柄な風貌で知られたこの甥と対照的な、サヴォイア家の中でも「低い背丈の当主」として知られていた。ヴィットーリオもこのことにコンプレックスを感じており、反動から周囲に対して無愛想な気難しい性格に育った。この体格には母マルゲリータが病弱であった事に加えて、祖父母と両親が共にサヴォイア家の同族で二代続けて従兄妹婚を通じた血統である事も影響しているかも知れない。
ナポリ公の授爵だけでなく、幼少期をイタリア北部や中部ではなく南部で過ごしており、士官学校に進む際にも旧サルデーニャ王国が設立したトリノ陸軍士官学校(現モデナ陸軍士官学校英語版)ではなく、旧ナポリ王国時代からの歴史を持つヌンツィアテッラ陸軍士官学校英語版)で学んでいる。父ウンベルト1世は統一後もピエモンテ式に馴染めない南イタリアの臣民とサヴォイア家との信頼構築を息子に託していた。1896年10月24日、25歳の時に近隣国モンテネグロ王国の第五王女イェレナ・ペトロヴィチ・ニェゴシュ結婚した。結婚に際して、イェレナはモンテネグロ正教会からローマ・カトリック改宗しており、夫婦仲も良好で跡継ぎのウンベルト2世を含む1男4女を儲けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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