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ワシントン大統領 : ミニ英和和英辞書
ワシントン大統領[りょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大統領 : [だいとうりょう]
 【名詞】 1. president 2. chief executive 
統領 : [とうりょう]
  1. (n,vs) chief 2. leader

ワシントン大統領 ( リダイレクト:ジョージ・ワシントン ) : ウィキペディア日本語版
ジョージ・ワシントン[りょう]

ジョージ・ワシントン(、グレゴリオ暦1732年2月22日 - 1799年12月14日ユリウス暦1731年2月11日生まれ))は、アメリカ合衆国軍人政治家黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。死去した現在もアメリカ合衆国陸軍大元帥の階級にいる。
妻であるマーサ・ワシントンは貞淑で公式の儀式をきちんと行って先例を開いたため、初代ファーストレディと見られている。
== 生い立ち ==
ジョージ・ワシントンは、1732年2月22日、バージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションにおいて誕生する。彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっているが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。
ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷士であった。彼の両親、オーガスティン・ワシントン(1694年11月12日 - 1743年4月12日)とその2番目の妻メアリー・ボール(1708年11月30日 - 1789年8月25日)は、イギリス出の家柄であった。オーガスティンは1657年にイングランドのサルグレイブからバージニアに渡ってきたジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。
ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡のフレデリックスバーグに近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。
青年期は測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉(ちしつ)するようになった〔当時のバージニアには現在のウエストバージニア州全土やオハイオ州のピッツバーグなどオハイオ川上流までが含まれていた。〕。
1748年には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた〔"Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings ". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.〕。
この仕事で得た収入でシェナンドー渓谷に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。この頃ローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。ワシントンは身長が6フィート2インチ (188 cm) あり(推定、資料により異なる)、よく目立った。

1751年に結核を患っていたローレンスが転地療養のためにバルバドスに渡った時、ワシントンも同行した。天然痘にかかるが無事に回復した。病気のあとは顔にあばたとして残ったが、これで免疫となったことはその生涯で経験した環境を考えれば重要なことであった。1752年2月4日にバージニア州のフレデリックスバーグ・ロッジNo.4(Fredericksburgh (Fredericksburg) Lodge No.4)でフリーメイソンに加わった。同年7月にローレンスが死去した。彼は最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはバージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分けてそれぞれ隊長が配されることになった。ワシントンはディンウィディの指名でその1つを継承し、少佐となった
〔"George Washington: Making of a Military Leader ". American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.〕。地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った〔Sparks, Jared (1839). The Life of George Washington ". Boston: Ferdinand Andrews. p. 17. Digitized by Google. Retrieved on May 17 2007.〕。
1753年12月、ディンウィディはフランスの軍事力やその考え方を探る目的でワシントンを、現在のペンシルベニア州ウォーターフォードにあったル・ビューフ砦に派遣し、伝言を伝えさせた。この伝言はフランスによるオハイオでの開発を止めるように要求したものであり、当然のように無視され、その後アメリカにおける2強国の対立が世界的な紛争に繋がる引き金ともなった。この時作成したワシントンの報告書は大西洋の両側で読まれることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・ワシントン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Washington 」があります。




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