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マーサ・ワシントン : ミニ英和和英辞書
マーサ・ワシントン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マーサ・ワシントン : ウィキペディア日本語版
マーサ・ワシントン[ちょうおん]

マーサ・ダンドリッジ・カスティス・ワシントンMartha Dandridge Custis Washington , 1731年6月2日 - 1802年5月22日)は、初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの夫人。初代アメリカ合衆国のファーストレディとも見られるが、彼女の生前にはそうした呼び方がなかったので、単にワシントン夫人として知られている。
== 伝記 ==
1731年6月2日未明、イギリス領北米植民地バージニア王室領植民地にあるウィリアムズバーグ近くのニューケント郡にあるで、裕福な農園主(1700-1756)と(1710-1785)夫妻の長女(3人の弟・5人の妹)として生まれた。当時の良家の娘の例に漏れず、家庭教師を付けられ、刺繍をし、楽器を奏で、馬にも乗った。乗馬は若い頃に階段を馬に乗って駆け上がり、人々を驚かせたほどの腕前だった。
1750年、18歳の時に20歳年上の富裕な独身男性、(1711-1757)と結婚。二人はチェスナット・グローブから数マイル上流の、パムンキー川岸にあった「ホワイトハウス」と呼ばれる農園の大邸宅に住んでいた。カスティスとの間に4人の子をもうけた。上の2人のダニエル・パーク・カスティス・ジュニア(1751-1754)とフランシス・カスティス(1753-1757)は早世したが、下の2人の(1754-1781)とマーサ・パーク・カスティス(1756-1773)はある程度長く生きた。1757年に夫が亡くなったことでマーサは巨大な富を持ち、特権的地位にある裕福な未亡人となった〔。当時は結婚すると妻の財産はすべて夫の物となるのが決まっていたため、独身男性たちの絶好の結婚相手の対象として注目された〔。
1759年1月6日に2人の子供を連れてジョージ・ワシントンと再婚した〔。ワシントンはこの頃には異母兄からマウントバーノンの農園を相続し、の大佐となっていた。ワシントンはこの1歳年上の未亡人との結婚によって資産を大々的に増やし、以降の活躍の基礎を固めることになった。ワシントンの方から2度求婚しての結婚であり、カスティスがマーサのために残した10万ドル相当、1万7千エーカーの土地と300人近くの奴隷という資産はみなワシントンのものとなった。
二人はワシントンの所有する農園で裕福で、明らかに幸せな暮らしを送ることになった。二人の間には子供が生まれず、マーサの連れ子2人を育てた。息子のジョンは1781年ヨークタウンの包囲戦でワシントンの副官として従軍するが死亡(チフスと考えられている)。ジョンの死後、ワシントンはジョンの2人の子供、マーサからみて孫となる(1779-1852)、(1781-1857)を育てた。2人はダンドリッジ家やワシントン家の姪や甥、その他の一族も物心両面で支援した。
マーサは丸顔で小柄の、極めて家庭的な女性であり、マウントバーノン農園やカスティス農園の家での生活で個人的に満足していた。「もっと陽気な女性ならこの役目を大いに楽しめたでしょうが、私は家にこもっている方が好きです」と述べている〔。しかし、アメリカ独立戦争大陸軍の総司令官に指名された夫と1775年ボストン近郊で合流してからは最後まで従って夫を影で支えた。陣営内では他の婦人たちを励まして繕いものをし、靴下を編んでこれらを兵隊に配ったり、負傷した兵士を分け隔てなく懸命に看護した〔。有名なバレーフォージの冬も夫のもとで過ごし、将兵の士気を一定の水準に維持する役割を果たした〔。
夫がアメリカ合衆国大統領に選ばれることには強く反対し、1789年4月30日の就任式も欠席した〔。しかし、2期にわたる任期の間は国の正式な女性代表者として奥ゆかしく務めを果たした。ワシントン政権下では毎週火曜に大統領の接見があり、木曜の夜に晩餐会が行われ、金曜の夕方にファーストレディのレセプションが行われた。マーサ夫人はこうした行事を几帳面にかつ慎ましく、控えめにこなした。会話が政治的な話題に流れないように気を付け、夫の健康を気遣って遅くても午後9時には必ず会をお開きにした〔。
第一期の大統領官邸はニューヨークウォール街にあり、第二期はフィラデルフィアに移転している。マーサは唯一ホワイトハウスに住まなかった実質的なファーストレディであった〔。
夫が第三期目を拒否したことにより、1797年に久々にマウントバーノンに戻る日が来た。マーサは「将軍と私はまるで学校から解放された子供のように喜んでいます」と友人に書いている。引退後の生活は夫人が求めていた牧歌的なものにはならなかった。一般国民だけでなく外国からの要人が何百人も大統領職を退いたマウントバーノンにいるワシントンのもとを訪れるようになった〔。ワシントンは1798年フランスとの関係悪化のために後任のジョン・アダムズ大統領によって臨時の司令官に任命された。戦争は回避されたものの、その翌1799年12月14日に彼は雨中の乗馬で風邪をひいたのが原因で65歳で亡くなってしまった。夫の死の床の前で「私もまもなくおそばに参ります」と言った〔。
連邦議会が夫の柩をマウントバーノンから新しい首都ワシントンD.C.に完成する議事堂内に移すことを決議したことはマーサに大きな失望をもたらしたが、彼女は公共の義務を最優先してこれに従った。ところが、結局は議会もこの計画を放棄した。
マーサは「深刻な発熱」が原因で1802年5月22日に死亡した。70歳没。夫婦揃ってマウントバーノンに埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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