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ローレンス・ヴァン・デル・ポスト : ミニ英和和英辞書
ローレンス・ヴァン・デル・ポスト[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト : ウィキペディア日本語版
ローレンス・ヴァン・デル・ポスト[ちょうおん]

サー・ローレンス・ヤン・ヴァン・デル・ポスト(Sir Laurens Jan van der Post、1906年12月13日 - 1996年12月16日)は、少なからぬ作品を有する20世紀のアフリカーナー著作家であり、農耕者にして、戦争の英雄、イギリス政府首脳陣の政治顧問、チャールズ王太子の側近中の側近、王太子の息子ウィリアム王子代父、教育家、ジャーナリスト、人道主義者、哲人、探検家、自然保護論者である。
==生涯==

===出征まで===
ヴァン・デル・ポストはオレンジ川植民地(旧オレンジ自由国、現在の南アフリカ共和国の一部)のフィリポリスにある小さな町で生まれた。ローレンスの父、オランダ出身のクリスティアン・ウィリアム・ヴァン・デル・ポスト(1856年 - 1914年)は、3歳のとき南アフリカに渡り、後にローレンスの母になる人物と1889年に結婚した。母の名はラミィといい、ドイツ出身の人物である。一家は全部で15人になる子供がおり、ローレンスは13番目の子にして五男である。クリスティアンは法律家にして政治家であり、対イギリス、第二次ボーア戦争を戦った。この第二次ボーア戦争後、家族を伴ってクリスティアンはステレンボッシュに逃れた。ローレンスも母の胎内であるが、そこで過ごした。一家は1906年、オレンジ川植民地のフィリポリスに戻り、ここでローレンスは生まれた。
ローレンスはその幼少期を一家の農園で過ごし、かなりの蔵書を有する父の書斎(ホメロスシェイクスピアも含まれていた)から読書の楽しみを覚えた。1914年夏に父が亡くなる。1918年、ローレンスはブルームフォンテーンのグレイ・カレッジに入学した。そこで深甚な衝撃を受けることになるが、それは「自分が黒人と分かち合っていた同じ人類であるという感覚を破壊するような教育がされている」からであった。
1925年、研修としてダーバンの「''The Natal Advertiser''」で働きながらレポーターを務めたのが、初めての仕事である。その「''The Natal Advertiser''」のローレンスの記事には、ダーバンや地元のグラス・ホッケー・チームで示されたローレンス自身の業績も含まれている。
1926年、他の2人の異議申し立てする作家、ロイ・キャンベルとウィリアム・プルーマーとともに、「''Voorslag''」という名(英語で whip lash:鞭打ちの意)の風刺雑誌を刊行した。これは、南アフリカのそれまで以上の人種的な統合を呼びかける雑誌であり、その過激な見解のため3号までで発禁となった。
その後、プルーマーと3カ月の休みを取り、東京へ船で向かった。かなだ丸という貨物船が日本へ帰国する時のことである。この経験は後年、この2人の作家にそれぞれ本を書かせることになった。
1927年、ケープ・タウン・オーケストラを創設した指揮者の娘、マージョリ・エディス・ヴェント(1995年没)と出会う。イギリスへ旅行に行き、1928年3月にドーセットのブリッドポートで結婚した。同年12月26日息子が生まれ、ヤン・ローレンス(後にジョンとして知られる)と名付けられた。
1929年、ケープ・タウンの新聞「ケープ・タイムズ」で働くため南アフリカへ戻る。ケープ・タウンでは「当初、マージョリと私はこれ以上ない凄まじい困窮のただ中で暮らしていた」とローレンスは日記に残している。ジェームズ・ヘルツォーク首相と南アフリカ白人優遇政策に反対するボヘミアンや知識人と連携を取り始める。「坩堝の南アフリカ」と題する記事で、ローレンスは南アフリカの人種問題に対する見解を明確にしたが、その中で「もとからの住民が自分たちと平等になるべきだということを、南アフリカの白人はこれまでに意識してそう捉えることをしてこなかった」と述べ、「地位向上と国内での交わりの過程には絶えず力を注いでいかねばならない(…)南アフリカの今後の文明開化は、黒色や白色にあるのではなく茶色であると私は信じる」とも予言している。
1931年にイギリスへ戻り、アーサー・ウェイリーJ.M.ケインズE.M.フォースターヴァージニア・ウルフといった人物を含むブルームズベリー・グループの構成員と友情を築いていった。ヴァージニアとレオナードのウルフ夫妻は出版人で、以前、ウィリアム・プルーマーの仕事を出版しており、ヴァン・デル・ポストの、ウルフ夫妻やブルームズベリー・グループへの紹介は、このプルーマーの人脈を通じてであった。
1934年、ウルフ夫妻はホガース・プレスの書籍としてヴァン・デル・ポストの初めての小説を出版した。この『''In a Province''』と呼ばれる作品は、人種的にそしてイデオロギー的に引き裂かれた南アフリカの悲劇的な結末を描き出している。
その後、毎日働く農夫になること、そしてリリアン・バウエス・ライオンの助力があって可能になるのだが、隣人である彼女とともにグロスターシャーのテットベリー近くのコレイ農場を購入することを決心した。そこでは、牛の世話と南アフリカ新聞の特派員としてロンドンを時折尋ねることに時間を割いていた。この時期を人生上、方向を見失っていた時期だと捉えていたが、方向を見失ったのは、ヨーロッパが戦争へゆっくりと転落していくことの反映であるとみなしていた。
1936年、南アフリカへ5回往来していたが、その中でインガレット・ギフォード(1997年没)に出会い、愛しあうようになった。インガレットはイギリス人の女優で著述家であり、ローレンスより5歳年上であった。同年、妻マージョリは2番目の子供、ルチアと名付けられた娘を出産した。1938年、家族を南アフリカへ帰国させた。第二次世界大戦が1939年に勃発すると、ローレンスは、イギリスと南アフリカとの間に、そして新たな愛ともとからの家族との間に引き裂かれた自分を見出す。人生が行き詰まって気分が落ち込み、しばしばアルコールに溺れることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローレンス・ヴァン・デル・ポスト」の詳細全文を読む




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