翻訳と辞書
Words near each other
・ ヴァージニア (装甲艦)
・ ヴァージニアシティー
・ ヴァージニアストック
・ ヴァージニアスリム
・ ヴァージニアビーチ
・ ヴァージニア・アクスライン
・ ヴァージニア・アップガー
・ ヴァージニア・アプガー
・ ヴァージニア・ウィリアムズ
・ ヴァージニア・ウェード
ヴァージニア・ウルフ
・ ヴァージニア・ウルフなんかこわくない
・ ヴァージニア・ウルフなんか怖くない
・ ヴァージニア・ウルフなんか恐くない
・ ヴァージニア・エリザ・クレム・ポー
・ ヴァージニア・オハンロン
・ ヴァージニア・ギルモア
・ ヴァージニア・クリスチャン
・ ヴァージニア・クレム
・ ヴァージニア・クレム・ポー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヴァージニア・ウルフ : ミニ英和和英辞書
ヴァージニア・ウルフ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴァージニア・ウルフ : ウィキペディア日本語版
ヴァージニア・ウルフ[ちょうおん]

ヴァージニア・ウルフVirginia Woolf, 1882年1月25日 - 1941年3月28日)は、イギリス女性小説家評論家、書籍の出版元であり、20世紀モダニズム文学 の主要な作家の一人。両大戦間期、ウルフはロンドン文学界の重要な人物であり、ブルームズベリー・グループの一員であった。代表作に『ダロウェイ夫人』 ''Mrs Dalloway'' (1925年)、『灯台へ』''To the Lighthouse'' (1927年) 、『オーランドー』 ''Orlando'' (1928年)、『波』''The Waves''(1931年)などの小説や「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋を持たなければならない」という主張で知られる評論『自分だけの部屋』''A Room of One's Own''などがある。
== 生い立ち==

ウルフは1882年1月25日ロンドンにて父レズリー・スティーヴンと、母ジュリア・プリンセップ・スティーヴン (旧姓ジャクソン) の間にアデリーン・ヴァージニア・スティーヴンとして生まれた。ウルフの父、レズリー・スティーヴン(1832年 - 1904年)は歴史家、伝記作家、批評家、編集者、そして登山家であり〔Alan Bell, ‘Stephen, Sir Leslie (1832–1904)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004; online edn, May 2006〕『英国人名辞典』''Dictionary of National Biography''の編纂者として知られる。このことはウルフが後に実験的な伝記を書いたことに影響を与えたものと考えられる。母親のジュリア (1846年 - 1895年) はジョン・ジャクソンとマリア・ジャクソンの間にインドで生まれ、後に母とイギリスに移った。著名な写真家ジュリア・マーガレット・カメロンは伯母である。ジュリアは美人の誉れ高く、エドワード・バーン=ジョーンズなどラファエル前派のモデルもつとめた〔Smith College libraries biography of Julia Prinsep Stephen 〕 。
ウルフはケンジントンのハイドパークゲート22番地の家で、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親のもとで育った。両親はともに再婚で、一家には3つの婚姻による子供がいた。母のジュリアは最初の夫ハーバート・ダックワースとの間にジョージ、ステラ、そしてジェラルド・ダックワースの3人の子供がいた。父レズリーは、ウィリアム・サッカレーの娘、ハリエット・マリアン ("ミニー") サッカレー(1840年 - 1875年)と結婚して、娘のローラ・メイクピース・スティーヴンがあった。ローラは精神障害と診断されて家族とともに暮らしていたが、1879年施設に入った〔Robert Meyer, 1998, Case Studies in Abnormal Behaviour, Allyn and Bacon〕。レズリーとジュリアの間にはヴァネッサ・スティーヴン (1879年)、トビー・スティーヴン (1880年)、ヴァージニア (1882年)、エイドリアン・スティーヴン (1883年) の4人の子どもがいた。
レズリー・スティーヴンは自身が著述家であったことに加えて、最初の妻の父であるウィリアム・サッカレーとのつながりもあったので、子どもたちはヴィクトリア朝文学界の影響の色濃い環境で育った。ヘンリー・ジェイムズ、ジョージ・ヘンリー=ルイス、ジュリア・マーガレット・カメロン、ジェイムズ・ラッセル・ロウエル(ウルフの名付け親)なども一家の客であった。ジュリア・スティーヴンもまた知己に恵まれていた。ジュリアの一族は、ヴィクトリア朝社会に名を馳せた美女を輩出しており、彼女たちはラファエル前派や初期の写真家たちのモデルもつとめた。このような影響に加えて、スティーヴン家の書斎には膨大な蔵書があり、ウルフやヴァネッサは古典や英文学を書物から学んだ。姉妹とは異なり、エイドリアンとトビーは正規の教育を受け、ケンブリッジ大学で学んだが、ウルフはここで男女の性の違いを残念に思っていたという。

ウルフの回想によれば、子ども時代の最も鮮明な記憶はロンドンのものではなく、コーンウォール州のセント・アイヴスのものである。一家は1895年まで毎年夏をここで過ごした。スティーヴン家のサマーハウスであったタランド・ハウスは、手を入れられ当時とは少々違ってはいるが、今もポースミンスター湾を見下ろす場所にある。ここで家族で休暇を過ごした思い出やゴドレヴィー灯台などの風景は、ウルフの作品、ことに『灯台へ』の下敷きになっている。
1885年、13歳の時に母が48歳で急死し、その2年後の異父姉ステラが死んだことによって、ウルフは神経衰弱を発病した。このような状態ではあったが、1897年から1901年の間に、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語と歴史の課程をロンドンのキングス・カレッジの女子部で履修し、いくつかの科目においては学位レベルまで修めた。ウルフはここで、クララ・ピーター、ジョージ・ワー、そしてキングズ・カレッジ女子部の校長でのメンバーとして知られているリリアン・フェイスフルなど、女子高等教育の草創期の改革者たちと出会った〔Christine Kenyon Jones and Anna Snaith, ‘"Tilting at Universities": Woolf at King’s College London’, Woolf Studies Annual, volume 16, 2010, pages 1–44."〕。姉のヴァネッサもここでラテン語、イタリア語と建築を学んだ。
1904年に父が72歳で死去した。この時ウルフは深刻な虚脱状態に陥り、一時的に入院治療した〔Bell 1996: 44〕。神経衰弱と繰り返す欝状態を、甥で伝記作家のクウェンティン・ベルら現代の学者はウルフとヴァネッサが異父兄ジョージとジェラルド・ダックワースから性的虐待を受けていたことに関連付けている。(ウルフはこのことについて自伝的エッセイ''A Sketch of the Past''、''22 Hyde Park Gate''で回想している。)生涯を通して、ウルフは周期的な気分の変化や神経症状に悩まされた。この不安定さは彼女の社交生活には影響を与えたが、文筆活動は一生を通してほとんど中断することなく続けられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴァージニア・ウルフ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.