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ロバート・クレイギー : ミニ英和和英辞書
ロバート・クレイギー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロバート・クレイギー : ウィキペディア日本語版
ロバート・クレイギー[ちょうおん]

ロバート・レスリー・クレイギー(Robert Leslie Craigie, 1883-1959)は英国の外交官である。支那事変(1937.7/7)勃発後、日本の大陸政策と英国の華北権益が衝突し、日英関係が急速に険悪化する1937年9月3日(-1941年)駐日大使として着任。1941年12月に真珠湾攻撃により日米が開戦したため、日本政府に短期間抑留され、翌年に交換船で帰国。
クレイギーについて論議を呼ぶのは、クレイギーが駐日大使の任務を総括した最終報告書の中で、太平洋戦争は必ずしも不可避では無かった事を示唆し、英国政府を批判した点である。
== 経歴 ==
ロバート・クレイギーは1883年12月6日、香港を基地とするイギリス軍艦の艦長の子として生まれ、幼時には毎年箱根で夏を過ごした。ハイデルベルクで個人教授を受け、後にイギリス外交官試験合格、1907年英外務省に入省した。以後、各種国際会議において事務を経験、1917年一等書記官としてスイス公使館に勤務し、1920年にはアメリカ大使館に異動。次に、1923年外務省勤務を命じられ、海外貿易局に勤務、そして再び英外務省の本省にて勤務となり、1928年外務省参事官に任命され1930年ロンドン海軍軍縮会議に参加し、また1935年には外務次官補に昇任し第二次ロンドン海軍軍縮会議に参加した。(1)
1930年と1935年の二つの海軍軍縮会議に参加し、日本人と交渉をした経験があり、1937年9月3日に54歳で駐日大使として着任。以後、1938年の夏の終わりに宇垣・クレイギー会談を行い、1939年7月から8月にかけて天津租界事件を俎上に有田・クレイギー会談があり、1940年1月から2月にかけて浅間丸事件を巡り再度の有田八郎外相との会談を経て、1941年12月太平洋戦争の勃発により日本政府に拘留され、翌年本国送還。(2)
戦後、戦前最後の駐日大使としてロンドン日本協会の理事長に就任し、日本協会の中心人物であったハンキー卿、エドワード・クロウ、F.S.G.ピゴット少将と共に1955年1月24日に勲章を授与され、クレイギーは旭日章を授与されている。1959年5月16日、75歳で死去。(3)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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