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レーティア : ミニ英和和英辞書
レーティア[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レーティア ( リダイレクト:ラエティア ) : ウィキペディア日本語版
ラエティア[ちょうおん]

ラエティア(、古い文献での綴りは Rhaetia)は、ローマ帝国属州である。その領域は、現在のスイス東部および中央部(ライン川上流やボーデン湖を含む)、ドイツバイエルン州南部やドナウ川上流部、オーストリアフォアアールベルク州、オーストリアとイタリアにまたがるティロル地方の大部分、およびイタリアのロンバルディア州の一部からなる。ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウィンデリキア:en:Vindelicia)、南はガリア・キサルピナに接した。北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわたって守られていた。ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山脈レッチェン峠(レージア峠)で越えるクラウディア・アウグスタ街道によって結ばれていた。
==歴史==
ラエティア人はいくつかの記録によると、アルプス周辺の民族の中でも勢力が強く好戦的だったようだが、起源についてはほとんど知られていない。 リウィウスは、ラエティア人はエトルリアから起こったとしており(''Ab Urbe Condita'' v. 33 )、この説をニーブールモムゼンも支持している。また、ジャスティン(:en: Junianus Justinus)(xx. 5)や大プリニウス博物誌iii. 24 、133)の歴史的資料によると、ラエティア人は元々ポー川流域に住んでいた民族で、それがガリア人の侵略を受け山地に逃れ、そのときのリーダーの名前「ラエトゥス(Raetus)」が民族の呼称となったとされている。ただし、呼称については、ケルト語の “rait” (山地)から派生した可能性が高いと考えられる。
かつてラエティアであった現在のオーストリア西部の人々の遺伝子からY染色体ハプログループを調査した結果、かつてエトルリア人が分布していた地域に共通するGグループの人が多いことが判明している。
さて、起源はエトルリアかもしれないが、ローマ人がエトルリアについて知るようになった時代には、ケルト人の民族がラエティアを支配し、住民の生活習慣も完全にケルト人に同化していたので、この時代のラエティア人は一般的にケルト人とみなされている。ただし、それに混じって、一部にはケルト人ではない民族(レポンティー族やエウガネイ族)も暮らしていた。
ラエティアに関する最も古い記述はポリュビオスの文献(Histories xxxiv. 10 , iS)にわずかに記載されているが、その後は共和政ローマが終わるまでほとんど記録に残っていない。とはいっても、紀元前15年ティベリウスネロ・クラウディウス・ドルススによって征服されるさまで、ラエティアが独立を保っていたことはほぼ間違いない(ホラティウス, ''Odes'', iv. 4 および 14 )。
ローマ帝国の属州となった当初、ラエティアはそのまま1つの属州とされた。しかしタキトゥスがアウグスタ・ウィンデリコルム(Augusta Vindelicorum、現アウクスブルク)をラエティア属州の植民地と記載している(''ゲルマニア''、41)ことから、1世紀の途中にはウィンデリキアが加えられたとみられる。ウィンデリキアを含むラエティア属州は、初めはプラエフェクトゥスが統治し、後にはプロクラトルが統治するようになった。2世紀まで、正規軍は常時はおらず、現地兵の軍や私兵が守備を努めた。
ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代、179年までには、ローマ第3軍団イタリカの駐屯地カストラ・レギナ(Castra Regina、現レーゲンスブルク)が置かれ、ラエティアはこの軍団の長官に統括されることとなった。ディオクレティアヌス帝の時代には、ラエティアはウィカリウス・イタリアエ(vicarius Italiae)教区に属するものとされた。また、ラエティアは二つの属州に分割され、旧ラエティアがラエティア・プリマ(Raetia prima)、ウィンデリキアがラエティア・セクンダ(Raetia secunda)とされ、どちらもプラエセス(praeses)が統治した。分割の境界ははっきり分かっていないが、一般的には、ボーデン湖(lacus Brigantinus)からイン川(Oenus)まで東西に結ぶ線あたりと考えられている。
西ローマ帝国が滅亡する最後の数年間、ラエティア地方は荒れ果てた。その後テオドリック大王が東ゴート王国を興してこの地を支配し、長(dux)を置くようになると、かつての繁栄をいくらか取り戻した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラエティア」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Raetia 」があります。




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