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レグナンス・イン・エクスケルシス : ミニ英和和英辞書
レグナンス・イン・エクスケルシス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


レグナンス・イン・エクスケルシス : ウィキペディア日本語版
レグナンス・イン・エクスケルシス

レグナンス・イン・エクスケルシス:''Regnans in Excelsis''〔英語読みで「レグナンス・イン・''エクセルシス''」、イタリア語読みで「レグナンス・イン・''エクスチェルシス''」と表記される場合がある。〕)は、1570年2月25日〔発布の日付を1570年4月27日とする説もあるが、これは勅書発布後の印刷ミスを原因とする誤記と考えられる(川村、P.70)。〕にローマ教皇ピウス5世によって発布された教皇勅書イングランド女王エリザベス1世に対する破門を宣告し、王位の正統性を否認した文書である。文書名は、ラテン語で書かれる勅書の最初の3つの単語(インキピット)から採られており、「いと高きところにしろしめす[神]」を意味している〔Text of ''Regnans in excelsis'', 1570 .〕。勅書の中で教皇は、「イングランド女王を僭称するエリザベスとその罪深い配下の者たち」は異端者であり、エリザベスの統治下にある全ての臣民に対し彼女に対する臣従義務を解除し、エリザベスの命令に服従する者は破門すると呼びかけた。'Regnans in Excelsis''〔英語読みで「レグナンス・イン・''エクセルシス''」、イタリア語読みで「レグナンス・イン・''エクスチェルシス''」と表記される場合がある。〕)は、1570年2月25日〔発布の日付を1570年4月27日とする説もあるが、これは勅書発布後の印刷ミスを原因とする誤記と考えられる(川村、P.70)。〕にローマ教皇ピウス5世によって発布された教皇勅書イングランド女王エリザベス1世に対する破門を宣告し、王位の正統性を否認した文書である。文書名は、ラテン語で書かれる勅書の最初の3つの単語(インキピット)から採られており、「いと高きところにしろしめす[神]」を意味している〔Text of ''Regnans in excelsis'', 1570 .〕。勅書の中で教皇は、「イングランド女王を僭称するエリザベスとその罪深い配下の者たち」は異端者であり、エリザベスの統治下にある全ての臣民に対し彼女に対する臣従義務を解除し、エリザベスの命令に服従する者は破門すると呼びかけた。'〔英語読みで「レグナンス・イン・''エクセルシス''」、イタリア語読みで「レグナンス・イン・''エクスチェルシス''」と表記される場合がある。〕)は、1570年2月25日〔発布の日付を1570年4月27日とする説もあるが、これは勅書発布後の印刷ミスを原因とする誤記と考えられる(川村、P.70)。〕にローマ教皇ピウス5世によって発布された教皇勅書イングランド女王エリザベス1世に対する破門を宣告し、王位の正統性を否認した文書である。文書名は、ラテン語で書かれる勅書の最初の3つの単語(インキピット)から採られており、「いと高きところにしろしめす[神]」を意味している〔Text of ''Regnans in excelsis'', 1570 .〕。勅書の中で教皇は、「イングランド女王を僭称するエリザベスとその罪深い配下の者たち」は異端者であり、エリザベスの統治下にある全ての臣民に対し彼女に対する臣従義務を解除し、エリザベスの命令に服従する者は破門すると呼びかけた。
== 背景 ==
1553年、メアリー1世の即位に伴ってイングランド国教会カトリシズムに復帰し、教皇はイングランドにおける権威を回復した。1558年にメアリー1世が死ぬと、王位を継いだ妹エリザベス1世は1559年1月に議会でを成立させ、イングランド国教会を再びカトリック教会から分離させた〔川村、P.51〕。1570年に出された「レグナンス・イン・エクスケルシス」は、イングランド教会の分離に対する教皇庁側の報復であったと言える。
しかしエリザベスのカトリックとの決別宣言から破門宣告までに11年間もの間隔が開いたために、その間に統治者としての地位を確立したエリザベスの王位を動揺させる効果は、より低下していた〔川村、P.55〕。破門が遅れたのは、スペインフェリペ2世スコットランド女王メアリーノーフォーク公トマス・ハワードといった、エリザベスの廃位により利害を左右されるカトリックの世俗の王侯たちが、教皇庁に破門宣告を遅らせるよう圧力をかけていたのが原因と考えられる。またエリザベス自身が何人かのカトリック信徒の王子との縁談を進めていたこと、イングランド国内のカトリック信徒の私的礼拝を黙認していたことなどから、1560年代は教皇庁側もイングランドのカトリック復帰に期待を持っており、これも破門の遅れを助長した。
ところがエリザベスのカトリック政策は1560年代末までに強硬になり、国内のカトリック信徒に対する差別が強まり、イングランドとスペインなどカトリック諸国との関係も悪化した。1569年にイングランド北部地方で起きた、同年にアイルランド島で始まったでカトリック信徒が蜂起すると、これを支持する形で教皇側は破門宣告に踏み切った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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