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レイモンド・ヴァン・バルネヴェルド : ミニ英和和英辞書
レイモンド・ヴァン・バルネヴェルド
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


レイモンド・ヴァン・バルネヴェルド ( リダイレクト:ライモント・ファン・バルネフェルト ) : ウィキペディア日本語版
ライモント・ファン・バルネフェルト

ライモント・ファン・バルネフェルトオランダ語は、基本的に、いわゆるローマ字読みである。
注意する点として、語尾のdtになったり、vよりも、に近いことなどがある。
さらに、毛沢東を日本では「もうたくとう」と読むように、アルファベットを使う他のヨーロッパ諸国などでは、違う読み方になり、英語では、レイモンド・ヴァン・バーナヴェルドのような発音になる。〕 (Raymond van Barneveld, ''"Barney"'', ''"The Man"'', 1967年4月20日 - )は、オランダのプロフェッショナル・ダーツ・プレイヤーである。
右投げ。デン・ハーハ出身。
現在の所属団体は、プロフェッショナル・ダーツ・コーポレイション (PDC) である。
彼は、ワールド・チャンピオンに5度、UKオープン・チャンピオンに2度、それぞれ、輝いた。
2008年の1月から6月まで、PDC オーダー・オヴ・メリットにおいて、ナンバー・ワンにランクされていたこともある。
合計で、ブリティッシュ・ダーツ・オーガナイゼイション (BDO) のメジャーで11度 (ワールド・チャンピオンシップで4度、ワールド・マスターズで2度、ワールド・ダーツ・トロフィで3度、そして、インターナショナル・ダーツ・リーグで2度)、PDCのプレミア・イヴェントで4度 (ワールド・チャンピオンシップで1度、UKオープンで2度、ラスベガス・デザート・クラシックで1度)、優勝している。
以前、4回、BDO ワールド・チャンピオンシップで優勝したことに加えて、2007 PDC ワールド・チャンピオンシップでの勝利によって、5回ワールド・チャンピオンになったエリック・ブリストウと、並んだ。
彼は、オランダ人史上、最も成功したダーツ・プレイヤーであり、オランダでダーツを広めるのに多大な影響を持っている。
==BDOでの活躍==

バルネフェルトが初めてワールド・チャンピオンシップに出場したのは、1991年、レイクサイド・カントゥリー・クラブで行われたEmbassy ワールド・チャンピオンシップだったが、このときは、第1ラウンドでオーストラリア人のキース・サラヴァンに、0-3で敗退した。
それから、彼は、BDOサーキットで、躍進し始め、1990年9月に行われたベルジャン・オープンと、1991年3月に行われたジャーマン・オープンで、準々決勝にまで進出した。
彼が初めて準決勝に進出したのは、1991年6月に開催されたスイス・オープンのことである。
彼は、1992年のワールド・チャンピオンシップでは、予選落ちしてしまったものの、1993年に、再びレイクサイドに返り咲いている。
このときは、接戦の末、2-3で、後にこのトーナメントのチャンピオンとなるジョン・ロウに敗れた。
1993年のワールド・チャンピオンシップが終わって間もなく、このスポーツにおける当時のトップ・プレイヤー達が、ワールド・ダーツ・カウンスル (WDC、現在のPDC) を設立し、BDOを離れていった。
バルネフェルトは、1994年のダーツ団体分裂後、BDOのオープン大会で飛躍し続け、ダッチ・オープンとベルリン・オープンでは準々決勝に、ベルジャム・オープンでは準決勝に、そしてフィニッシュ・オープン (Finnish Open) では、エァンディ・フォーダムに敗れたものの、決勝に、それぞれ到達した。
彼は、1995年のワールド・チャンピオンシップでも、決勝まで順調に駒を進めていった。
しかし、ウェールズ人のリチー・バーネットに、3-6で敗れ去る。
1996年と1997年、どちらも第2ラウンド敗退となった後、1998年の決勝は、1995年の決勝と同じ対決となり、この元ポストマン〔バルネフェルトのこと。彼の前職は、郵便集配人だった。〕は、バーネットを打ち破り、初めてのワールド・タイトルを手にした。
この対決は、それまでに無い5-5 (セッツ) に達したことにより、最高に素晴らしい試合の1つと、しばしばみなされているが、最終的には、バルネフェルトが、フィニッシュのD8を決め、最終セットを4-2 (レッグズ) で勝利したことにより、このタイトルを獲得した。
彼は、1年後、イングランドロニー・バクスターに、またもや6-5でチャンピオンの防衛に成功する。
これで、彼は、このトーナメント史上、このタイトル防衛を成功した、たった2人のプレイヤー(もう1人は、エリック・ブリストウ)となった。
彼の連続優勝の走行は、2000年に第1ラウンドで、クリス・メイスンに当たってしまったことにより、終了した。
メイスンは、アヴェレッジ100を叩き出し、ワールド・チャンピオンのハット・トリックと言うバルネフェルトの望みは、終わった。
バルネフェルトは、2001年と2002年は準々決勝で、4-5でテッド・ヘァンキーに、3-5でマーヴィン・キングに、それぞれ敗北している。
そして、2003年、彼は、6-3でウェールズ出身のリチー・デーヴィーズに勝利し、3度目のワールド・タイトルを手にした。
翌年の2004年は、準決勝でエァンディ・フォーダムに、4-5で敗れた。
2005年、彼は、4度目のタイトルを、手にした。
彼は、初めの3ラウンドを、1セットも落とさず、ゲリー・アンダースンマイク・ヴァイチ、そして、フィンセント・ファン・デル・フォールトを倒した。
準決勝では、5-3でデァリル・フィットゥンに勝利し、決勝では、イングランドマーティン・エァダムズに6-2で勝利し、4度目の栄冠に輝いた。
続く2006年、バルネフェルトは、6度目の決勝に出場し、5度のBDOのワールド・タイトルというブリストウの記録に並ぼうと試みた。
しかし、今回、彼の望みは、同郷の仲間である、当時21歳のイェレ・クラーセンに、5-7という結果で打ち負かされ、消えてしまう。
また、彼は、BDOにおいて、Winmau ワールド・マスターズのタイトルも、2回取得した。
1度目は、2001年、フィンランドヤルッコ・コムラに、2度目は、2005年、スウェーデンヨーラン・クレッメに、それぞれ決勝において勝利したときである。
他の主要なダーツのトーナメントにおいて、彼が少なくとも2回以上は優勝したものには、ワールド・ダーツ・トロフィと、インターナショナル・ダーツ・リーグが、ある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ライモント・ファン・バルネフェルト」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Raymond van Barneveld 」があります。




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