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ルーイー・ナン : ミニ英和和英辞書
ルーイー・ナン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルーイー・ナン : ウィキペディア日本語版
ルーイー・ナン[ちょうおん]

ルーイー・ブローディ・ナン(、1924年3月8日 - 2004年1月29日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士である。1967年から1971年まで第51代ケンタッキー州知事を務めた。伝統的に民主党が優勢なケンタッキー州にあって、1947年に退任したシメオン・ウィリス以来20年振りの共和党知事であり、ナンの後は2003年にアーニー・フレッチャーが当選するまで30年以上共和党知事はいない。
第二次世界大戦で非戦闘部門の軍務を終えた後、法学校を卒業したナンは法律実務を始め、ケンタッキー州バーレン郡では初の共和党郡判事になった。ジョン・シャーマン・クーパー、サーストン・モートン、ドワイト・D・アイゼンハワーなど全国レベルの共和党候補者の選挙運動で働いた。1963年ケンタッキー州知事選挙で共和党候補となったが、民主党候補のエドワード・ブレシットに対して接戦を落とした。この選挙戦中に前任知事バート・コームズが署名したケンタッキー州の公共サービスから人種差別を無くす執行命令が大きな問題になった。ナンは当選すればこの命令を撤廃すると誓ったが、ブレシットはその継続を約束した。
1967年、ナンは再度州知事選挙に立候補した。共和党予備選挙でマーロウ・クックを破った後、本選挙では民主党のヘンリー・ウォードに辛勝した。州の選挙で選ばれる役人は民主党と共和党で分かれ、民主党員副知事ウェンデル・H・フォードと協力しなければならなくなった。ケンタッキー州議会は民主党が支配していたにも拘らず、ナンは優先事項の多くを法制化することができた。例えば州立公園体系の改善や州全体の精神医療センター・ネットワークの構築に資する増税があった。北ケンタッキー大学をコミュニティ・カレッジから上級教育機関へ移行させ、ルイビル大学を州立大学システムの中に入れさせた。その政権の後半ではルイビルでの人種暴動や、ケンタッキー大学でベトナム戦争に反対する暴力的抗議が起きて、災いされた。知事を退任した後は、1972年のアメリカ合衆国上位議員選挙でウォルター・"ディー"・ハドルストンに、1979年の州知事選挙ではジョン・Y・ブラウン・ジュニアに挑戦したが、どちらも敗北した。晩年は息子のスティーブの政治的野心を支持し、ケンタッキー州における工業用麻の合法化を提唱した。ナンは2004年1月29日に心臓発作で死んだ。
== 初期の経歴 ==
ルーイー・ブローディ・ナンは1924年3月8日に、ケンタッキー州バーレン郡メトカーフ郡の境にある小さな街、パークで生まれた〔Byrd, p. 13〕。生まれた時の名ルーイーは父の故人となった友人から採られ、ミドルネームのブローディは母方の姓だった〔Byrd, p. 17〕。父はウォラー・ハリソン・ナン、母はメアリー・ロバーツであり、その4人の息子の四男だった。ルーイーの下に女の子のバージニアがいた〔Byrd, p. 16〕。ナン家は農家であり、雑貨店を経営していたが、父のウォラーは生まれつき心臓病を抱え、関節炎を悪くし、軽作業に限られる状態だった〔"WKU Hall of Distinguished Alumni". Western Kentucky University〕〔Byrd, pp. 17–18〕。長兄のリー・ロイは共和党で影響力ある選挙参謀かつ資金集め担当となった〔Byrd, p. 11〕。
ナンはパークの教室が1つ、教師が1人の学校で最初の8年間の教育を受けた〔Powell, p. 108〕〔Byrd, p. 37〕。10代のとき、農場の重い機械を持ち上げているときにヘルニアを患った〔。このことに父の病歴が組み合わされ、その生涯の大半に付いて回る腰痛になった可能性がある〔Byrd, pp. 17, 37〕。1938年、ハイスビル高校に入学した〔Byrd, p. 40〕。ボーリンググリーン実業大学で学士号を取得した〔"Kentucky Governor Louie Broady Nunn". National Governors Association〕。
1941年12月7日の真珠湾攻撃の後、ナンはB-17爆撃機のパイロットになれると期待して、操縦訓練を受けるためにオハイオ州シンシナティに向かった〔Byrd, p. 42〕。しかし、最初の飛行訓練を終える時までに、アメリカ陸軍は航空士官候補生プログラムを中断していた〔。1943年6月2日、ナンは陸軍に入隊し、テキサス州フォートワース近くのウォルターズ砦で入隊時訓練を受けた〔。その後何度も転籍された。最初はテキサス州ウィチタフォールズに近いシェパード空軍基地駐屯だった〔。次に第97歩兵師団配属となり、ミズーリ州レナードウッド砦で追加訓練を受けた〔Byrd, p. 44〕。最後は陸軍医療隊に転籍となったが、腰痛が悪くなり、1945年9月13日に疾病除隊となった〔。除隊のときは伍長になっていた〔Sexton, p. 206〕。
軍隊任務の後、シンシナティ大学で法学の予科に通った〔。3年後、ルイビル大学法学校に入学した。このときの同級には後のアメリカ合衆国下院議員マーロウ・クックがいた〔Byrd, p. 46〕。1950年に法学士号を取得した〔Byrd, p. 45〕〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 686〕。同年9月にはケンタッキー州グラスゴーで法律実務を始めた〔Byrd, p. 54〕。
1950年10月12日、ナンはケンタッキー州ボンド出身の離婚経験者ビューラ・コーネリアス・アスプレーと結婚した〔〔。この夫妻には1951年生まれのジェニー・ルーと、1952年生まれのスティーブという2人の子供が生まれた〔Byrd, p. 57〕。アスプレーは最初の結婚から3人の子供を産んでいた〔Byrd, p. 50〕。ナンは幼いときからのメソジストを、アスプレーとの結婚後に離れ、ディサイプルスの会員になった〔Byrd, p. 23〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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