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ルネ=モーリス・ガットフォセ : ミニ英和和英辞書
ルネ=モーリス・ガットフォセ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルネ=モーリス・ガットフォセ : ウィキペディア日本語版
ルネ=モーリス・ガットフォセ[ちょうおん]

ルネ=モーリス・ガットフォセ(、1881年 - 1950年)は、フランスの調香師、香料及び香粧品の研究者、経営者である〔大学で化学を学び香料の研究を行ったが、博士ではない。〕〔ルネ=モーリス・ガットフォセ 著、ロバート・ティスランド 編著 『ガットフォセのアロマテラピー』 前田久仁子 訳、フレグランスジャーナル社、2006年〕。父のルイ・ガットフォセが経営するガットフォセ社で働き、精油の輸入と合成香料の輸出を行う事業に関わり、合成香料の研究を行った〔ルネ・モーリス・ガットフォセの一生 パート1 Île des fleurs Paris Tomomi〕。父の会社を引きついで、元々の事業から皮膚美容分野に事業をシフトさせ〔Bibliography SOLYVIA〕、香料や精油(エッセンス)の医療への利用に興味を持って研究した。1937年に、精油の医療面での利用を扱った本''Aromathérapie – les huiles essentielles hormones végétales'' (アロマテラピー、芳香療法)を発刊し、同年に精油と芳香物質の「消毒・防腐・殺菌」の特性にテーマを絞り、''Antiseptiques essentiels'' を発刊した〔当時抗生物質はまだ誕生していない。〕。精油の医療への利用を科学的に研究した初期のひとりで、現在精油による療法を指す「アロマテラピー」は、ガットフォセが命名したといわれる〔ただし彼は、治療に精油を使った最初の人物ではなく、それを記載した初めての人物でもない。アラビアやヨーロッパでは、伝統的に精油は医療に広く利用されていた。また、彼と同時期に、精油の医学的利用を研究した人物も複数存在する。〕〔ジュリア・ローレス 著 『エッセンシャルオイル図鑑』 武井静代 訳、東京アロマセラピーカレッジ、1998年〕。
香料及び香粧品化学を中心に多数の論文がある。その他に考古学先史学、哲学、また超能力アトランティスなどの秘儀的なテーマに興味を持ち、研究を行っている。歴史エッセイやSF小説も出版した。
経営者として成功したことから、リヨン(リオン、Lyon)香料企業連合の秘書官、後に副会長をつとめ、リヨン貿易見本市の指導者、A.I.C.A(Association Industrielle Commerciale et Agricole)の創立者など、様々な仕事をつとめ、地元の名士として知られた〔ルネ・モーリス・ガットフォセの一生 パート2 Île des fleurs Paris Tomomi〕。
==略歴==

1881年に、ルイ・ガットフォセの息子としてフランスリヨンに生まれた。ルイは1894年の国際博覧会以降、息子のアベルと共に経営していたガットフォセ社の事業に、精油の輸入と合成香料の輸出を加えた。当時調香師が使っていた香料の品質は一定しておらず、アルコールで大幅に希釈されたり、テルペン含有率が高かったり〔香水に使う精油は脱テルペン処理がされたものである。〕、合成香料も希釈され、濃度の定義も統一されていなかった。ルイ、アベル、ルネ=モーリス・ガットフォセは、一定の濃度と香りを持つ純度100%の香料化合物の作成を試み、制作した。ガットフォセは調香師たちに使い方を指導するために、1906年に''Formulaire du Parfumeur'' を著し、この本は版を重ねた〔1906年から1912年には香料の新製法が発展し、現代的な香水の製造が可能になっていった。ハエンセル(旧チェコスロバキアピルナ出身)によってテルペンレス・エッセンス(脱テルペン精油)が作りだされ、天然の精油がより一定した品質で、溶解しやすい形で利用できるようになった。(''Aromathérapie'' では、「エッセンス」と「精油」が混同されて用いられている。香水業界では、圧搾法で得られた柑橘類の芳香成分を「エッセンス」として精油と区別する場合も多い。)またグラース市で花から抽出したアブソリュート・エッセンスが製造されるようになった。〕。また、山岳地域で香料原料を栽培する貧しい農民のために、ラベンダーなどの栽培法・蒸留法などの技術的支援を行った。
1910年に父ルイが亡くなった。同年ガットフォセはひどい火傷を負い、悪化した傷をラベンダー油で治療した〔アロマテラピー関連書を多数翻訳する高山林太郎は、ガットフォセの家族に確認したところ、火傷を負った事故があったのは1915年であると述べている。〕〔塩田清二著 ≪香りはなぜ脳に効くのか≫続き 高山林太郎〕。第一次世界大戦で兄のアベルとロベールが戦死し、ガットフォセは弟ジャンと共に家業の経営を行った。ガットフォセは植民地製品の研究のために、ジャンをモロッコに送り、ジャンは未知の植物をカタログにし、植民地での蒸留産業を計画した。この時期の仕事は''La Parfumerie moderne'' という冊子シリーズに記されている。''La Parfumerie moderne'' は精油の美容製品への利用法などについても語られ、40冊以上も刊行され、当時の医師や治療家、美容製品や薬品を作る専門家から高い支持を受けたといわれる〔ルネ・モーリス・ガットフォセの一生 パート3 Île des fleurs Paris Tomomi〕。刊行当初は精油の効能と香料にクローズアップしているが、後半は化粧品基材や学会報告などが増えており、内容に変遷が見られる。
ガットフォセは、民間薬としての精油の利用に興味を持ち、医師による癒傷作用試験や臨床報告をまとめ、''Rôle physiologique des parfums'' (1924年)などの論文を医師と共同で著し、また''Usi terapeutici dell'essenza di bergamotto'' (1932年)などの論文を発表した。これらの研究は最終的に、1937年に''Aromathérapie – les huiles essentielles hormones végétales'' と''Antiseptiques essentiels'' として発刊された。著作は香料や精油の利用に影響を与え、リヨンのいくつかの病院で医師の助力を得ることができたため、ガットフォセは香料・精油の医療への利用の研究を続行した。芳香物質の皮膚への利用を研究し、治療的な美容製品の技術が進歩した。これらの研究は''Produits de Beauté'' (1936年)などにまとめられ、スペイン語イタリア語ポルトガル語で翻訳された〔精油の医療面での利用は、一時期注目されたが、抗生物質が一般化するとほとんど忘れられてしまった。〕。
1950年に出版した化粧品の本を最後に、同年モロッコで没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルネ=モーリス・ガットフォセ」の詳細全文を読む




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