翻訳と辞書
Words near each other
・ ルドルフ・カルマン
・ ルドルフ・カール・ブルトマン
・ ルドルフ・ガンツ
・ ルドルフ・キンスキー
・ ルドルフ・クライン=ロッゲ
・ ルドルフ・クラウジウス
・ ルドルフ・クリストフ・オイケン
・ ルドルフ・クロイツァー
・ ルドルフ・クロイツェル
・ ルドルフ・クヴェルナー
ルドルフ・グラウバー
・ ルドルフ・グンドラフ
・ ルドルフ・ケンペ
・ ルドルフ・コンフナー
・ ルドルフ・コーリッシュ
・ ルドルフ・ザ・ラスト・キス
・ ルドルフ・シェンカー
・ ルドルフ・シェーネルト
・ ルドルフ・シェーファー
・ ルドルフ・シェーンハイマー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ルドルフ・グラウバー : ミニ英和和英辞書
ルドルフ・グラウバー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルドルフ・グラウバー ( リダイレクト:ヨハン・ルドルフ・グラウバー ) : ウィキペディア日本語版
ヨハン・ルドルフ・グラウバー[ちょうおん]

ヨハン・ルドルフ・グラウバー(Johann Rudolf Glauber、1604年? - 1670年3月10日)は、ドイツ-オランダ薬剤師化学者。歴史家の中には彼を世界初の化学工学者と呼ぶ者もいる〔Herman Skolnik ''in'' W. F. Furter (ed) (1982) ''A Century of Chemical Engineering'' ISBN 0-306-40895-3 page 230 "Some historians of science consider Glauber as one of the first chemical engineers as he developed processes for the manufacture of sulfuric,nitric, acetic, and hydrochloric acids"〕。1625年、硫酸ナトリウムを発見したため、これを「グラウバー塩」とも呼ぶようになった。
== 生涯 ==
1604年、カールシュタットにて理容師の息子として生まれる。子沢山の大家族であり学校にもろくに通わなかったが、独学で薬学を勉強し多くの研究機関を訪問したと考えられている〔この節は、ドイツの文献を参照しているドイツ語版ウィキペディアと Galileo Project の記述を参考にしている。〕。本人は高校の退屈な授業よりも経験によって学んだことがよかったと語っている。ウィーン(1625年)、ザルツブルクギーセンヴェルトハイム(1649年-1651年)、キッツィンゲン(1651年-1655年)、バーゼルパリフランクフルトケルンアムステルダム(1640年-1644年、1646年-1649年、1656年から死去まで)と移り住んだ。初めは鏡の製造を生業としていたが、ギーセンの宮廷では薬剤師として2度(2度目は薬剤師長として)仕えた。しかし、三十年戦争が勃発したためそこを去っている。アムステルダムでは(グラウバー塩のような化学物質を含む)医薬品製造事業を立ち上げた。一時は大いに成功したが1649年に倒産し、ヴェルトハイムに移住した。
2度結婚しており、2度目の結婚(1641年)で8人の子をもうけた。息子のヨハネスがグラウバーの著書の挿絵の版画を制作したと見られている。
1660年、仕事で様々な重金属を扱っていたことが原因の中毒と思われる病に倒れた〔鏡の製作や薬の調剤に水銀を使っていた。ヒ素アンチモンも調剤に使っていた。は酸を作るのに使っていた。これらはいずれも体内に蓄積する毒である。〕。1666年、馬車から落ちて怪我をし、その後は寝たきりとなった。結果として家族を養うために蔵書や器具類を売り払って金にした。1670年3月16日、アムステルダムにて死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハン・ルドルフ・グラウバー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.