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ルターシュタット : ミニ英和和英辞書
ルターシュタット[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルターシュタット : ウィキペディア日本語版
ルターシュタット[ちょうおん]
ルターシュタット(, 「ルター都市」)とは、ドイツ宗教改革マルティン・ルターが暮らし、顕著な活動をした都市を指す。ルターシュタットを公式名称に含むのは、都市ではルターシュタット・アイスレーベンルターシュタット・ヴィッテンベルク、また地区では、マンスフェルトのマンスフェルト=ルターシュタット地区 (Mansfeld-Lutherstadt) がある。この3か所は、2012年に を授与された。
==ルターシュタット連合==
ルターシュタット連合 (Bund der Lutherstädte) は、かつてルターが暮らし、活躍した16都市が加盟する連合である。ヴォルムスのの125周年を機に、1993年に設立された。
* アウクスブルク:ルターが教皇の使者に面談した。帝国議会で1530年にはアウクスブルク信仰告白が、また1555年にはアウクスブルクの和議が決められた。
* コーブルク:ルターがアウクスブルク信仰告白の折衝の際に滞在した。
* アイゼナハ:1498年から1501年にかけてルターが暮らし、フランシスコ会神学校に通った。1521年から1522年にかけての10か月間をルターはヴァルトブルク城で「ユンカー・イェルク (Junker Jörg)」として過ごし、新約聖書ドイツ語に翻訳した。
* ルターシュタット・アイスレーベン:ルターが誕生し、死去した。
* エアフルト:ルターは1501年から1505年にで学び、その後、アウグスティノ修道院で活動した。
* ハレ (ザーレ):ルターはハレを幾度も訪れ、その後とともにマンスフェルトへ赴いた。ルターの遺体は特にハレで棺台に安置された。
* ハイデルベルク:ルターがアウグスティノ修道会で彼の神学を解説した。
* マクデブルク:1497年から1498年に、ルターがマクデブルク大聖堂の学校に通った。
* マールブルク:ルターとフルドリッヒ・ツヴィングリが1529年にのために邂逅した。
* ノルトハウゼン:市参事会が1524年に正式に改革を決議した。これ以前の1522年に当地の聖ペトリ教会 (St.-Petri-Kirche) のルターの信奉者が、ドイツで初めてプロテスタントの説教を行っている。
* :ルターがの折衝に参加した。
* シュパイアー:1529年にが行われた。
* :ルターを庇護したザクセン選帝侯ヨハンヨハン・フリードリヒ1世の政府が置かれていたため、ルターがたびたび滞在した。1544年には初のプロテスタント教会としてのを聖別した。ルターの妻、カタリナ・フォン・ボーラはトルガウで1552年に死去した。
* ルターシュタット・ヴィッテンベルク:ルターが主要な活動を行った地である。95ヶ条の論題を発表し、カノン法と教皇の破門状を焼却した。ルターはこの地でルター聖書大教理問答小教理問答、その他の著作を物した。
* ヴォルムス:ルターが1521年にヴォルムス帝国議会に召喚された。
*:福音派初の監督に腹心のニコラウス・フォン・アムスドルフを据えるため、ルターはたびたびツァイツを訪れた。同地のミヒャエル教会 (Michaeliskirche) には世界で6部のみ残るテーゼの印刷物が収められている。今日ツァイツにはが本拠地を置いており、ルターの子孫が多く住む。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルターシュタット」の詳細全文を読む




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