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ルイージ・イッリカ : ミニ英和和英辞書
ルイージ・イッリカ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルイージ・イッリカ : ウィキペディア日本語版
ルイージ・イッリカ[ちょうおん]

ルイージ・イッリカ(Luigi Illica, 1857年5月9日 - 1919年12月16日)は、イタリアオペラ台本作家。カタラーニプッチーニジョルダーノなど「新イタリア楽派」のために書いた数々のオペラ台本によって名高い。
日本ではしばしば「イルリカ」とも表記される。
== 生涯 ==
ピアチェンツァ近郊のカステッラルクアートに生まれる。若くしてイタリア国外を放浪し、1876年にはオスマン帝国軍との戦闘に参加したともいう。また、女性を巡っての決闘がもとで右耳を傷つけ、以後写真に撮られる際には顔の右側を隠すよう腐心したともいう。
1879年頃からミラノに落ち着き、同地の文壇に加わり、詩人ジョズエ・カルドゥッチらと親交を深めるようになる。演劇においては1883年の処女作『ナルボニエ=ラトゥール家の人々(''I Narbonnier-Latour '')』や、ミラノ方言を駆使した1891年発表のコメディ''L'ereditàa del Felìs''によって成功を収めた。
イッリカのオペラ台本作家としての活動は、アントニオ・スマレーリアのために書いた『シゲットの家来 (''Il vassallo di Szigeth '')』(初演1889年)で始まる。ジャコモ・プッチーニに対しては1892年、その出世作となった『マノン・レスコー』の台本を提供したことで協力関係が開始された。もっとも、同オペラはレオンカヴァッロなど多くの作家が関与しており、最終稿においてもイッリカよりはドメニコ・オリヴァの手になる部分が圧倒的に多かったようであるが、イッリカは巧妙にもオリヴァの名を台本から外し、手柄を横取りしたとの説がある。
その後1894年からは、楽譜出版業者ジューリオ・リコルディの勧めもあって高名な劇作家ジュゼッペ・ジャコーザと組み、プッチーニと3人で新作オペラを制作する体制をとった。そこではイッリカが原作からの場面設定、時代考証などを行い、散文形式で各登場人物の会話を書き起こし、ジャコーザがそれを韻文にまとめた。この3者のコラボレーションは『ラ・ボエーム』(初演1896年)、『トスカ』(同1900年)、『蝶々夫人』(同1904年)という3つの傑作となって今日も残っている。お互い自己主張の強いイッリカとプッチーニの2人をうまくまとめていたジャコーザが1906年に亡くなってからは、両者の関係はしっくりいかなくなり、マリー・アントワネットを題材とする台本をプッチーニが依頼したにもかかわらずイッリカが筆を進めなかったことから、両者は絶交状態となった。
イッリカは他のオペラ作曲家に対しても台本を提供し、その総数35に及ぶ。うちカタラーニ『ラ・ワリー』(初演1892年)、ジョルダーノアンドレア・シェニエ』(同1896年)、マスカーニ『イリス』(同1898年)などは今日でも世界各地歌劇場のレパートリーに残る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルイージ・イッリカ」の詳細全文を読む




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