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ルイ・ド・フュネス : ミニ英和和英辞書
ルイ・ド・フュネス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ルイ・ド・フュネス : ウィキペディア日本語版
ルイ・ド・フュネス

ルイ・ド・フュネス(Louis de Funès、1914年7月31日クールブヴォア - 1983年1月27日ナント、出生名ルイ・ジェルマン・ダヴィッド・ド・フュネス・ド・ガラルザ Louis Germain David de Funès de Galarza)〔ナント市の死亡届より〕はフランス喜劇俳優。約140本もの映画に出演し、20世紀後半のフランス映画で最も有名な俳優の一人であるだけでなく、1960年代から1980年代初頭にかけてのフランス映画の興行収入の比類無き第一人者であり、2億7千万もの集客数を数えた〔記録・受賞歴を参照〕。幾つかの映画の脚本家、『守銭奴 L’Avare』(1980年)では共同監督も務めた。
彼の出演するほとんどの映画で共通する、低い身長でありながら大げさな身振りを伴って画面内を所狭しと動き回り、目上にはへつらいながら目下には厳しく叱るという彼特有のキャラクターは、典型的なフランスの喜劇役者として、フランスだけでなくヨーロッパをはじめ、中でもソビエト連邦で大きな成功を収めた〔:fr:Jean-François Sirinelli, :fr:Georges-Henri Soutou, :fr:Françoise Thom, Catherine Horel, ''Culture et Guerre froide'', Presses universitaires de la Sorbonne, 2008, page 166〕。
ルイ・ド・フュネスのサントロペシリーズ』〔全6作中で興行収入第1位が4回、第4位が2回〕(憲兵シリーズ)、『ファントマ』シリーズをはじめ、『大追跡』〔1965年度興行収入第1位〕『大進撃』〔1966年度興行収入第1位、その後30年間最高記録を保持〕『ニューヨーク←→パリ大冒険』〔1973年度興行収入第1位〕『L'Aile ou la Cuisse(手羽先かモモ肉か)』〔1976年度興行収入第2位、フランス映画では第1位〕など多くのヒット映画を生み出した。またそれらのフランスにおける年間の興行収入は常にトップレベルを獲得し、1位を8回も得た。フェルナンデルブールヴィルジャン・ギャバンイヴ・モンタンコリューシュといった、喜劇のみならずフランスを代表する俳優とも多く共演した。
''(本稿では日本公開されている映画および定まった邦題が検索可能なものは可能な限り邦題とその後に欧文原題を書き、日本未公開で邦題未定のものは欧文原題の後に括弧付きで訳題を、邦題が原題と大きく異なり尚且つ本文の都合上説明が必要な場合は邦題と欧文原題の後に括弧付きで訳題を記す。映画以外の演劇や参考文献についてはこの限りではない)''
== 来歴 ==

=== 生い立ち ===
カスティーリャ地方の没落した貴族の出身であるルイ・ド・フュネスは、カルロス・ルイ・ド・フュネス・ド・ガラルザ(1971年マラガ - 1944年5月19日)とレオノール・ソト・レグエラ(1878年1月21日オルティグエイラ - 1957年10月25日モンモランシー)〔ヴァル=ドワーズ県モンモランシーの死亡届による〕の3番目の子供であり、1904年に父が母と結婚した後スペインから移住してきた。母方はその父がマドリッドで著名な弁護士であるブルジョアの家系であり、最初は彼らの結婚に反対していたが、最終的には多額の持参金を持たせて結婚を承認した。
2人の兄姉はマリー(出生名マリア・テオリンダ・レオノール・マルガリータ、1907年7月20日クールブヴォア - 1993年10月28日パリ、2度目の結婚で映画監督フランソワ・ジルの妻となった)と、シャルル(出生名カルロス・テオリンド・ハヴィエル、1908年9月12日 - 1940年5月20日ルテル)である。シャルルはフランス軍第152小隊の兵士としてドイツ軍の機関銃によって戦死した。
不思議な性格で、フランスに来てからは弁護士の仕事を続けられなかった父は、突然ダイアモンド職人になった後「仕事が発展する事を願って」ベネズエラに旅立ち、そこで結核にかかって1934年にスペインで孤独死した。それに対して母は、ルイの喜劇の最初の先生となった。

母は「そうりゃ、捕まえるじゃのう」と(スペイン語訛りで)叫びながらテーブルの周りを回って私を追いかけた。このような振る舞いから、彼女は無意識のうちに役者としての天分を持っていたのだ〔.〕。--ルイ・ド・フュネス 『ド・フュネスとド・フュネス de Funès et de Funès』2005年、p. 38

彼女はまた、彼が5歳の時に最初のピアノのレッスンを教えた。幼きルイはその少年時代のすべてを、彼の通ったジュール・フェリー学校のあるヴィリエ=シュル=マルヌセーヌ=エ=オワーズ県)で過ごした。
1930年、16歳の時、パリのコンドルセ高校での学業が半ばにさしかかった頃、革職人となっていた兄の勧めにより、バスティーユ広場の近くにある皮革専門学校に入学したが、教師へのヤジを咎められて退学となった。それから幾つかの製革所で様々な技術を身につけたがことごとく首となり、また職業労働に対して怠慢だったため、両親は1932年に彼を自宅から徒歩圏内の写真映画学校に入学させ、そこで彼は映画科を選択した。クラスには、ずっとのちに彼の様々な映画の写真家となるアンリ・ドゥカエがいた。

ルイ・ド・フュネスはあまり外向的なタイプではなかった。のちに毎回新しい映画でお互い会う度に、彼は決まって20年や30年前の写真映画学校での冗談「チオ硫酸ナトリウムソーダ」(写真の定着剤に使われる化学薬品)を私に叫んで笑うのだった。それは先生が我々にその薬品の特性を教えるときの強い口調のものまねであり、我々の間の共通の冗談であった〔.〕。
--アンリ・ドゥカエ 『カーネル Kernel』2004年、p. 184

最終的に、彼は故意の火事によって退学させられる。職を見つけてはすぐに首にされ失業者となる繰り返しの生活が始まった。「高等教育を放棄した後、私の父はあらゆる小さな仕事をやった。彼は家の中ではその事を一切語らなかったので、インタビューでその事を語っているのは多少の脚色があるかもしれない」と、息子のオリヴィエ・ド・フュネスは語っている〔。
1936年4月27日、サンテティエンヌでジェルメーヌ=ルイズ=エロディ・カロワイエ(1915年3月7日パリ - 2011年9月28日クレルモン)と最初の結婚をする。1937年7月12日には長男ダニエル=シャルル=ルイが生まれるが、既に3年後に夫婦は別居状態となり、1942年になってやっと正式な離婚をする〔Louis de Funès sur cinememorial.com〕パリ占領時代、彼は小さな仕事(ショーウィンドーのデザイナー、靴磨き、郵便の糊付け人など)を転々としたのち。バーのピアニストとなり、そこでエディ・バークレーと出会う〔Cette période varie selon les sources, la famille de Funès affirme qu'elle débute en 1936, mais on trouve des dates postérieures dans certaines biographies.〕。「ルイ・ド・フュネスは、私と同じように楽譜を読むのは得意でなかったが、耳は良かった。彼は素晴らしい音楽家だった。役者である事は語らなかった。」彼は夜中まで12時間に及び様々なハコで演奏し、そのギャラとレッスン料で小さなるつぼの家賃を払って貧窮な生活を立てていた。

私は1942年にマドレーヌ寺院界隈でピアニストをしていた彼と出会った。場末のビストロで私は彼とピアノの連弾をした。最後に私が一人で弾いている間、ド・フュネスはピアノの上によじ上って歌った〔Interview de Georges Lautner sur ''autourdelouisdefunes.fr'', 19 janvier 2008.〕。
--映画人ジョルジュ・ロートネルの回想

彼は『Pas de week-end pour notre amour(僕らの愛に週末は無い)』、『La Rue sans loi(無法地帯の通り)』、『サラサラと鳴る Frou-Frou』, 『大追跡 Le Corniaud』, 『大進撃 La Grande Vadrouille』, 『パリ大混戦 Le Grand Restaurant (大レストラン)』 そして 『オーケストラの男 L'Homme orchestre』 といったいくつもの映画の中で、当時のこのような仕事を演じている。
1943年にジャンヌ=オーギュスティーヌ・バルテレミー・ド・モーパッサン〔Louis de Funès : dans l'ombre ou dans la lumière, toutes les femmes de sa vie , consulté le 30 décembre 2014.〕(2015年3月13日に101歳で死去〔, consulté 2015-3-18.〕。作家のギ・ド・モーパッサンの家系の出身〔)と再婚する。2人はモーブージュ通り42番地の小さな二間に住む。1944年、次男のパトリックが、そして1949年には三男のオリヴィエが生まれた。オリヴィエはのちにその父の6本の映画制作に携わり、またOscarではキャストを演じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルイ・ド・フュネス」の詳細全文を読む




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