翻訳と辞書
Words near each other
・ ラウターブルンネン
・ ラウターブルンネン-ミューレン山岳鉄道Be4/4 21-23形電車
・ ラウターブルンネン駅
・ ラウダス
・ ラウダン郡
・ ラウダー・ザン・ラヴ
・ ラウダ航空
・ ラウダ航空004便墜落事故
・ ラウダ=ケーニヒスホーフェン
・ ラウチ
ラウッツィーニ
・ ラウテンヴェルク
・ ラウテン県
・ ラウディオ
・ ラウディオ/ジョディオ
・ ラウディオ/リョディオ
・ ラウデリーノ・クビノ
・ ラウデリーノ・クビーノ
・ ラウデンバッハ
・ ラウデンバッハ (ウンターフランケン)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ラウッツィーニ : ミニ英和和英辞書
ラウッツィーニ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラウッツィーニ ( リダイレクト:ヴェナンツィオ・ラウッツィーニ ) : ウィキペディア日本語版
ヴェナンツィオ・ラウッツィーニ[ちょうおん]

ヴェナンツィオ・ラウッツィーニVenanzio Rauzzini, 1746年12月19日 - 1810年4月8日〔Kathleen Kuzmick Hansell, Oxford Music Online〕)は、イタリア人カストラート作曲家ピアニスト、歌唱指導者、演奏会興行者。
ラウッツィーニは少年期、システィーナ礼拝堂の合唱団に所属しており、ドメニコ・コッリムツィオ・クレメンティの弟子であった。またローマではジュゼッペ・サンタレッリに、ナポリではニコラ・ポルポラに師事している〔Rauzzini Biography of Venanzio Rauzzini at operissimo.com (in German) 〕。
== 生涯 ==
ラウッツィーニはカメリーノに生まれた。彼がオペラデビューを果たしたのは1765年、ローマのであり、ニコロ・ピッチンニのオペラ「''Il finto astrologo''」で男性役の1人を演じた〔Barbier, p. 88〕。1766年にはヴェネツィアので歌い、その後の1766年から1767年にはバイエルン国立歌劇場の舞台に上がった〔。ラウッツィーニは多くの既婚女性と浮名を流したために、ミュンヘンの宮廷を去らねばならなくなった〔Barbier, pp. 138-139〕。次に1767年に彼がウィーンの宮廷で歌った際には、モーツァルトが聴いていた。モーツァルトは「ラウッツィーニの歌声を聴いて喜んだ反応をし、ミラノで『』(1772年)の主役を演じて欲しいと申し出た。その後、特に彼のためにモテットエクスルターテ・ユビラーテ』(1773年)を作曲している〔Barbier, p. 179〕。」
ラウッツィーニは1770年代初頭にはヴェネツィアとミュンヘンでの演奏活動に復帰し、1774年から舞台を退く1778年まではロンドンでも大きな興行的成功を収めた〔Barbier, p. 185, P. 210〕。オペラ歌手として第一線を退いた後、彼は歌唱とピアノの指導を行い、また多くのオペラを作曲した〔。数年間ロンドンに暮らした後の1780年バースに居を構え、1781年にニュー・アセンブリー・ルーム・コンサートの指揮者となった。ハイドン1794年にラウッツィーニの元に滞在し、もてなしへの返礼としてカノン「タークは忠実な犬でした ''Turk was a Faithful Dog''」を作曲した。題はラウッツィーニの愛犬の記念碑からとられている。ラウッツィーニの著名な弟子には、、、らがいる〔Emerson (2005, 101)〕。ラウッツィーニは、1781年頃から1810年に没するまでバースで演奏会の指揮、興行を行った。彼の弟子の多くは、彼が毎年開催する予約演奏会に登場した。彼は生前に自らの歌唱法のアイデアを記した声楽教本や、一冊の専門書を出版している〔Hansell, ibid.〕。ラウッツィーニはに埋葬されており、聖堂には弟子のナンシー・ストレースとブラハムが彼を記念する碑を建てている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴェナンツィオ・ラウッツィーニ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.