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ヨーゼフ・ゲッベルス : ミニ英和和英辞書
ヨーゼフ・ゲッベルス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨーゼフ・ゲッベルス : ウィキペディア日本語版
ヨーゼフ・ゲッベルス[ちょうおん]

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス( 、1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツ政治家国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、直後に家族とともに自殺した。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、1897年10月29日、ドイツ帝国プロイセン王国に属する人口3万人の小都市で生まれた〔クノップ『ヒトラーの共犯者 上』p.33〕〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.11〕〔リース『ゲッベルス』p.15〕〔Thacker,p.10〕。ライトはミュンヘン=グラートバッハ(現在のメンヒェングラートバッハ)と川を挟んで隣り合う双子都市で、主要産業はミュンヘングラートバッハと同じく織物だった〔西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)10ページ〕。宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった〔〔。
父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を持っていたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった〔〔。母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.12〕。ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にハンス (Hans) とコンラート (Konrad) がいた。加えて姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.12〕〔。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.15〕〔リース『ゲッベルス』p.16-17〕。
ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった〔クノップ『ヒトラーの共犯者 上』p.34〕〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.11〕〔Thacker,p.11〕。そのためヨーゼフの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた〔〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.12〕。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった。このことは、成人してからも身長がドイツ人としては小柄な165cmしかなかったこととともに、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとしてくれる自分の母を嘲笑した」〔
友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のを愛読して、幅広い知識を身につけたという〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.13〕。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒもヨーゼフならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした〔〔Thacker,p.12〕。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし同級生達からはあまり好かれず、教師達からははっきりと嫌われていたという。ゲッベルスは教師から嫌われていることに焦り、教師たちの歓心を得ようとして同級生の告げ口をすることが多かったという〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.14〕。
1914年に第一次世界大戦が勃発。ゲッベルスも他の同級生たちと同じようドイツ帝国軍に従軍したいと願い、兵員募集に応じて兵役検査を受けた。だが担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった〔〔リース『ゲッベルス』p.17〕。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている〔Thacker,p.13〕。
1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語国語宗教が「優」であった。ギリシア語フランス語歴史地理数学物理もそれに次ぐ「良」であった〔マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.15〕。〔平井『ゲッベルス』p.7〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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