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ユリウス・フレーベル : ミニ英和和英辞書
ユリウス・フレーベル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ユリウス・フレーベル : ウィキペディア日本語版
ユリウス・フレーベル[ちょうおん]

カール・フェルディナンド・ユリウス・フレーベル(, 偽名 C. Junius, 1805年6月16日 - 1893年11月6日)は、ドイツの地質学者政治家フランクフルト国民議会の代議員で、アメリカ亡命から戻ってきたのち、新聞編集者で外交官を務めた。
==生涯==
ヘッセングリースハイムに4人兄弟の長男として生まれる。父はフリードリヒ・フレーベルの兄で、グリースハイムの牧師だったが、カールが9歳の時に死去した。ルーデルシュタットのギムナジウムに通っていたが、経済的な困窮もあって、学費、食費を免除されていた。1817年に隣町のカイルハウにあった叔父フリードリッヒの一般ドイツ教育舎 (Allgemeine Deutsche Bildungsanstalt) に移る。1823年にそこの学校を卒業。その後、測量技師の助手をして学費を稼ぎ、ミュンヘン大学で自然科学を学ぶ。その中で地質学が最も彼の関心を引いた。1833年、学位取得。その後さらにイェーナ大学およびベルリン大学鉱物学を学んだ。
1833年、彼はアレクサンダー・フォン・フンボルトの仲介で、チューリッヒの工業専門学校に留学。若きゴットフリート・ケラーの教え子の一人となる。1836年にチューリッヒ大学の鉱物学教授に就任。教授資格論文は『結晶形成の仕組みの基本特徴』と題されたものである。これに伴い1838年、チューリッヒ行政区の市民権を取得している。この行政区の直接民主制への市民としての関わりの中で、彼は政治参加に目覚めていった。
1840年、チューリッヒ・ヴィンタートゥール文学局 () という出版社を興し、C・ユニウスの偽名を使って、ドイツでは出版禁止になった民主主義的な文学作品の出版社にして、編集者として活動を始める。ブルーノ・バウアーフリードリヒ・エンゲルス、ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ、アーノルト・ルンゲ、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュルツ、そしてダーフィト・フリードリッヒ・シュトラウスの著作や、ゲオルク・ヘルベク、ホフマン・フォン・ファーレスレーベン、そしてゴットフリート・ケラーの詩歌を刊行した。1849年にはチューリッヒ大学の教授職を辞任。
1848年10月、フランクフルト国民議会の代議員となる。1848年6月14-17日、フランクフルト・アム・マインでの民主化議会に関与したあと、まず共和派左派の代表者となり、その後中央3月連盟で指導的な役割を演じた。その後彼は、より穏健な親オーストリア的立場に与した。ロベルト・ブルムに率いられた議員団の一員としてウィーンに赴き、ブルムとともに、1848年のウィーン十月蜂起(:de:Wiener Oktoberaufstand 1848)にも関わった。ヴィンディッシュ・グラーツ公アルフレート1世によって事が挫折したのち、彼はこの加担の罪でウィーンで死刑の宣告を受けた。同志のブルムはブリギッテナウで銃殺されたものの、フレーベルは恩赦を受け、アメリカ合衆国に亡命してフランツ・ハインリッヒ・ツィッツと共に弁護士業を営んだ。彼はアメリカでも政治や奴隷制廃止運動に積極的に関わったが、今回は経済的な動機が陰でかなり働いていたように見られる。アメリカの黒人奴隷の人権的な問題は彼にはほとんど重きをなしていなかった。むしろ、彼の著作の中では、明らかに人種差別的な態度を見てとることができる。1849年から1857年までの期間は、主としてニューヨークで生活していた。
1857年、恩赦によりドイツに帰国した。それからは大ドイツ的な解決のための統一運動に関与し、『大ドイツ的懸案の指導』という思想表明の著述でフランクフルト君主議会を支援した。
普墺戦争でオーストリアが敗北し、それともない大ドイツ的解決が明らかに不可能になった後、フレーベルは1867年から1873年まで南ドイツ出版で編集者を務め、統合への指導的な力を鼓舞した。
68歳で彼はドイツ帝国の外交の仕事に足を踏み入れ、トルコのイズミルの領事になり、のちアルジェの領事も務めた。1888年に彼はこれらの仕事から引退している。同年、彼の妻も死去、彼はスイスの兄弟たちの住む地元に戻った。1893年にチューリッヒにて没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユリウス・フレーベル」の詳細全文を読む




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