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ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ : ミニ英和和英辞書
ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ : ウィキペディア日本語版
ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ[ちょうおん]

イイェレーミヤ=ムィハーイロヤレーマ・コルィーブト・ヴィシュネヴェーツィクィイ()、イェレーミ・ミハウヤレーマ・コルィーブト・ヴィシニョヴィェツキイェジ・ルコフスキ/フベルト・ザヴァツキ著、河野肇訳『ポーランドの歴史』創土社2007年ではヴィシニョヴィェツキステファン・キェニェーヴィチ編、加藤一夫/水島孝生共訳『ポーランド史』恒文社1986年ではヤレマ・ヴィシニョヴェツキ伊東孝之/井内敏夫/中井和夫編『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社1998年ではヴィシニョヴィエツキと表記。〕(、1612年8月17日〔 〕 - 1651年8月20日)は、、ルブヌィー、に知行地を持っていたウクライナである。ポーランド・リトアニア共和国に仕えるルーシリトアニア系の古い貴族の家系であるの家長で、当代きってのマグナートであった。は紋章の名称。軍事に秀で、1646年からルーシ県長官を務めたほか、ペレームィシュリ、、ノーヴィ・タールクハーデャチカーニウの長官を歴任した。ウクライナの歴史家ムィハーイロ・フルシェーウシクィイによれば、彼はその時代においてウクライナ・ポーランドはおろか、全ヨーロッパで一番の富裕な貴族であったという。今日のポルタヴァ州と周辺州の一部に当たる広大な地域が、ヴィシュネヴェーツィクィイ領()と呼ばれた。
息子のミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキはのちにウクライナ人としてはじめてポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1669年 - 1673年)となった。
== 概要 ==

ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイは、リトアニア・ルーシ系の公の家系の出であった。キエフカシュテラン(城代)でオーウルチ長官のを父に持ち、母はモルダヴィア公イェレーミャ・モヴィーレの娘でペトロー・モヒーラの従姉妹であった。祖父は、ウクライナのヘーチマンムィハーイロ・ヴィシュネヴェーツィクィイであった。子息には、のちにポーランド王となったムィハーイロ・コルィーブト・ヴィシュネヴェーツィクィイがいた。
イエズス会リヴィウ・コレギウムで学び、のちイタリアスペインに遊学し、軍事について学んだ。莫大な財産をウクライナに所有していた。とりわけ、左岸地域にはルブヌィーを中心とする56の都市と小都市を所有し、年に金120万の年貢を収める28万8000以上の領民を抱えていた。加えて、1万2000の宮廷軍を保有していた。
生まれたときには正教の洗礼を受けたが、1631年には、自身の権力を拡大するためカトリックに改宗した〔 〕。同時に、積極的に正教の擁護活動を始めた〔 〕。1632年から1634年スモレンスク戦争に参加し、1633年には()の軍と戦った。その後は、ウクライナ・コサックの叛乱に対処した。1637年のと、1638年のを鎮圧した。1644年には、自身の宮廷軍を率いてに参加、トハイ・ベイ率いるクリミア・タタール軍を破った。
1648年フメリヌィーツィクィイの乱が勃発すると、襲撃のために左岸地域の所領から逃げ出す者が相次いだ。緒戦において官軍が壊滅したため、ヴィシュネヴェーツィクィイは自力で治安の回復に取り組まねばならぬことになった。彼は右岸地域で町や村に対する焼き討ちや住民の粛清を行い、どうにかして叛乱を鎮圧しようとしたが、その強硬姿勢は却って叛乱を激化させた。1648年中に行われた、プヤートカ、の戦いではヴィシュネヴェーツィクィイと他のマグナートたちの宮廷軍はマクスィム・クルィヴォニース率いる庶民軍相手に善戦した。
しかし、9月のでポーランド王とシュラフタの連合軍が壊滅すると、ヴィシュネヴェーツィクィイはリヴィウまで撤退を余儀なくされた。1649年夏には休戦協定を破り、コサック・タタール同盟軍の立て籠もるを敢行したが勝敗はつかず、一方で包囲軍への援軍は壊滅するという結果を生んだ。1651年初夏には、ポーランド軍の指揮官の一人としてに参加した。この戦いにおいてヴィシュネヴェーツィクィイはコサック叛乱軍に対する勝利に貢献した。
ところが、その戦いのすぐあと、同年8月20日に彼はで急逝した。死因は明らかになっていない。遺体はミイラ化され、ポーランドの聖十字架修道院に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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