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モンテ・カッシーノの戦い : ミニ英和和英辞書
モンテ・カッシーノの戦い[もんて かっしーののたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

モンテ・カッシーノの戦い : ウィキペディア日本語版
モンテ・カッシーノの戦い[もんて かっしーののたたかい]

モンテ・カッシーノの戦い(モンテ・カッシーノのたたかい、)は、第二次世界大戦中、1944年1月17日から5月19日にかけてイタリアモンテ・カッシーノで行われた戦い。連合軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ライン(en)の突破およびローマ解放のために企画された。
1944年初頭、グスタフ・ラインの西半分は、ラーピド川リーリ川ガリリャーノ川およびその周囲の尾根や山頂を守るドイツ軍により支えられていた。その中にあって、モンテ・カッシーノ頂上にある修道院(529年ごろ建立された歴史的建築物)には守備兵は配置されておらず、修道院城壁下の急斜面に防御陣地が築かれていた。2月15日カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し、修道院は破壊された。その理由は修道院が枢軸軍守備隊の監視所として使用される懸念があったためである(枢軸軍がそこに進駐していなかったという主張が認められるまでには長い時間がかかった)。爆撃の2日後、ドイツ軍降下猟兵がこの廃墟を守備するために投入された。1月17日から5月18日まで、グスタフ・ライン守備隊は連合軍の4度に渡る攻撃をうけた。この間連合軍は32kmの前線に20個師団を投入しドイツ軍を駆逐したが、甚大な損害を被った〔Jordan, D, (2004), ''Atlas of World War II''. Barnes & Noble Books, p. 92〕。

== 背景 ==

1943年9月、連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダー指揮の第15軍集団はイタリア・サレルノ上陸作戦アヴァランチ作戦)ののち、イタリアの“背骨”を形成しているアペニン山脈の東西両側からそれぞれ北方へ進撃した。西側戦線では、マーク・ウェイン・クラーク中将指揮のアメリカ第5軍ナポリからイタリアの“ブーツ”を北上し、東側戦線では、バーナード・モントゴメリー大将イギリス第8軍アドリア海沿岸を進軍した。
第5軍は、困難な地形、悪天候および熟練したドイツ軍の抵抗により、進軍が遅れていた。ドイツ軍は、最大のダメージを与えるよう設計・準備された陣地から戦闘を仕掛けては退き、ローマ南方の守備陣地グスタフ・ラインを建設するための時間を稼いだ。当初、ローマは1943年9月には陥落すると見込まれていたが、それは楽観的すぎた。
アドリア海沿岸のイギリス第8軍はグスタフ・ライン東側を突破し、オルトーナを占領していたが、その進軍は12月末には猛吹雪の始まりで停滞し、複雑な地形のため航空支援も不可能であった。このためルート5号線を使用した東からローマへ向かう進軍ルートは非現実的であると判断され、高速道路6号線および7号線ルートのみが可能性として残された。しかしその2ルートのうち高速道路7号線(古代ローマアッピア街道)は西海岸に沿ってローマ南方ポンティーノ湿地帯に通じており、そこは既にドイツ軍により水没させられていた。高速6号線はリーリ川の渓谷を通過しており、この谷の南側入り口はカッシーノの町後方の多数の丘で構成されていた。いくつかの丘の頂上はドイツ軍守備兵が連合軍の動きを観測するのに最適の場所であり、北への進軍を阻止し、連合軍部隊への直接砲撃を可能としていた。
アペニン山脈中央に源流をもつ流れの速いラーピド川は、連合軍の前線を横切り、カッシーノを通過し、リーリ川渓谷入り口へ通じていた。その後リーリ川と合流してガリリャーノ川(連合軍から時に「ガリ」と呼ばれた)となり、海へと続いた。強固に要塞化された山岳守備と困難な渡河(流れが速いだけでなく、ドイツ軍はラーピド川の流れを谷の先端で一時的に変えて谷の底で氾濫させ、あらゆる攻撃が困難になるようにしていた)により、カッシーノを要としたグスタフ・ラインは難攻不落の守備陣地に造り上げられていた。
ドイツ軍と修道院の間では、修道院の歴史的重要性に鑑み、修道士たちが残っている限り修道院を軍事目的で利用しないことで合意した。1943年12月、イタリア方面総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥は修道院内へのドイツ軍部隊の配置・陣地化を行わないよう命じ、そのことを連合軍に適宜通知した〔Time, The Bombing of Monte Cassino 〕〔Hapgood and Richardson 〕。
このような状況下で、何機かの連合軍偵察機はドイツ軍部隊が修道院内にいたと報告している。修道院は周囲の丘や谷を監視するには最適の場所で、それゆえドイツ軍砲撃観測手にとって天然の観測所と成り得た。ただ、一旦修道院が破壊されてしまえば、ドイツ軍がそこを占拠し、防御陣地を築くためにその瓦礫を利用するという事は明白であった。最終的に修道院破壊につながる軍事的根拠は、占領されているかどうかより、むしろその潜在的脅威(現実にしろ想像にしろ)のほうにあった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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