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ムハンマド・イクバール : ミニ英和和英辞書
ムハンマド・イクバール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

バール : [ばーる]
 【名詞】 1. bar 2. crowbar 3. (P), (n) bar/crowbar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ムハンマド・イクバール : ウィキペディア日本語版
ムハンマド・イクバール[ちょうおん]

ムハンマド・イクバールラテン文字表記:''Muhammad Iqbal''、アラビア文字表記:محمد اقبال、デーヴァナーガリー文字表記:मुहम्मद इक़बाल、1877年11月9日-1938年4月21日)は、独立以前のインドで活躍したムスリム詩人哲学者政治家である。ペルシア語、あるいはウルドゥー語で書かれた彼のは、現代において最高峰といわれている。また、彼は原理主義的イスラームに基づいた宗教あるいは政治哲学でも有名であり、インドに住むムスリムがインドとは別の独立国家建設することを提案し、この提案は、パキスタンとして結実した。一般に「アッラーマ・イクバール」(Allama Iqbal, علامہ اقبال)として言及される事も多い。
英国ドイツでの留学後、弁護士事務所を開業したが、彼の関心は宗教と哲学におかれていたため、政治、経済歴史哲学、宗教についての作品群を書き上げた。イギリス政府によるナイト勲章授与のきっかけとなった"''Tarana-e-Hind''"(ترانۂ ہند, タラーナ・イェ・ヒンド)、"''Asrar-E-Khudi''"(اسرار خودی, アスラーレ・フディー)や"''Rumuz-i-Bekhudi''"(رموز بیخودی, ルムーゼ・ベーフディー)、"''Bang-i-Dara''"(با نگ درا, バーンゲ・ダラー)、などの詩作で知られている。イクバールは加えて、政治、哲学、歴史についても多くのコメントを残しており、「パキスタンの国民的詩人」でもある。
イクバールは、とりわけ、インドにおけるイスラーム文明の政治的・精神的復興の強い主唱者であった。その思想は、"''The Reconstruction of Religious Thought in Islam''"と題して出版された一連の著作集で明らかである。全インド・ムスリム連盟のもっとも著名なリーダーの一人であり、1930年代に、「インドに居住するムスリムのための北西インド州(国家)」の創設を提案した。かれは、同じく全インド・ムスリム連盟の指導者であったジンナーを励ましつつ、ともにパキスタン独立へ尽力した。
== 若年期 ==

イクバールは、パンジャーブ地方のシアールコート(Sialkot)で5人兄弟の長男として生まれた。イクバールの家族はもともとヒンドゥー教徒のバラモンであったが、彼の先祖であるサハージー・ラーム・サプルー(Sahaj Ram Sapru)がイスラームに改宗したと伝えられている。ただ、この考えについては、多くの学者の間で論争がある。イクバールの父は裕福な仕立屋であり、敬虔なムスリムでもあった。イクバールの家族は子供たちを深い宗教的背景に基づいて育ててきた。
イクバールは初め、家庭教師について、語学、歴史、詩、宗教を学んだ。詩人や作家としてのイクバールの才能は、家庭教師であるサイイド・ミール・ハサン(Sayyid Mir Hassan)に見出され、地元シアールコートにあるスコッチ・ミッション大学でも彼の元で勉強を続けた。イクバールは数ヶ国語の語学能力、韻文及び詩作に秀でており、1892年に大学を卒業した。
イクバールは15歳のときに、パンジャーブ州グジュラートの著名な医者の娘カリーム・ビービー(Karim Bibi)と結婚し、一男一女をもうけた。3番目の子供は出生後まもなく死没した。イクバールとカリーム・ビービーの結婚生活はあまり芳しくなく、後の1916年に離婚している。
イクバールはラホールの政府系の大学に進学し、そこで哲学や英文学、アラビア語を勉強し、同時に美術学士を取得した。加えて、イクバールは哲学の試験でトップの成績を修めたために金メダルをもらっている。修士課程でイクバールはイスラーム及び現代哲学の学者でもあるトーマス・アーノルドに師事した。アーノルドは、イクバールに西洋文化と思想を教え、東洋と西洋の双方の思想の間の橋渡しをした。彼はラホールのオリエンタル・カレッジでアラビア語学科のリーダーに任命され、1903年には最初の著作である"''The Knowledge of Economics''"を出版した。また、1905年には愛国的な歌である"''Tarana-e-Hind''"(『インドの歌』)を出版した。
アーノルドの薦めもあって、イクバールはその後ヨーロッパへ留学をする。1907年にはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで文学士号を取得する。その一方、リンカーン・カレッジで法律を学び、1908年弁護士の資格を取得した。加えて、ムスリム学生でもあるアティーヤ・ファイズィー(Atiya Faizi)と出会い、彼女とは、親密な関係を結んだ。また、ヨーロッパ滞在中に、ペルシア語での詩作を始めている。彼は生涯を通してペルシア語での著述を好んでいたが、それはペルシア語が哲学概念を表現するのに最も適した言語だという彼の信念を示している。
イギリス滞在中、イクバールは初めて政治活動にも参加している。1906年全インド・ムスリム連盟が結成されると、イクバールは1908年にイギリス支部の代表に選出された。他の2人の政治家サイイド・ハサン・ビルグラーミー (Syed Hassan Bilgrami)とサイイド・アミール・アリー(Syed Ameer Ali)とともに、イクバールは党の綱領を起草する小委員会の委員に就任した。
1907年にイクバールはミュンヘンルートヴィヒ・マクシミリアン大学で哲学博士号を取得するためドイツへ旅立った。フリードリッヒ・ホンメルの指導の下、イクバールは"''The Development of Metaphysics in Persia''"(『ペルシアにおける形而上学の発展』)という論文を出版している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ムハンマド・イクバール」の詳細全文を読む




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