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ミミ萩原 : ミニ英和和英辞書
ミミ萩原[みみはぎわら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はぎ]
 【名詞】 1. bush clover 2. Lespedeza 
萩原 : [はぎわら]
 (n) reedy field
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

ミミ萩原 : ウィキペディア日本語版
ミミ萩原[みみはぎわら]

ミミ萩原(ミミはぎわら、1956年2月6日- )は、日本の元歌手女優タレント女子プロレスラー、ヒーラー、アーティスト。歌手・アイドル時代の旧芸名はミミミミーで出演している例もある)〔、結婚前の本名は萩原 妙美〔。
東京都出身。身長165cm・体重48kg。(女子プロデビュー時〔『サンデー毎日1981年12月13日号, p. 144-145〕) 血液型・B型 水瓶座。
== 経歴 ==

* 祖父はフランス系スイス人〔。芸名の「ミミ」または「ミミー」は幼少期の愛称であった〔。
* 15歳までスイスに居住し、帰国後は調布アメリカンスクール卒業、英語とフランス語が堪能〔〔。幼い頃は獣医を志していた。
* 1972年毎日放送)『仮面ライダー』のライダーガールズのひとりチョコ役(70-92話、93-98話)でデビュー(クレジットはミミー)。
* 1973年日本コロムビアよりミミの名で歌手デビュー。デビュー曲は「おしゃれな土曜日」〔。他「恋人たちの森」「恋愛志願」「水色の予感」の3枚のシングルと1枚のアルバム『かわいいシャトン』を出し、『8時だョ!全員集合』にも何度か登場した。
* その後、『プレイガールQ』、『あんちゃん』などのテレビ・ドラマに出演。
* ビューティ・ペアの人気が爆発した1978年、アイドル歌手から女子プロレスラーに転身、全日本女子プロレスに入団し、大きな話題を呼んだ。転向理由は「芸能界は足の引っ張り合いが激しくて、それがイヤになってやめた」と説明した〔。格闘技は子供のころから好きだったという〔。
* リングネームはミミ萩原。1978年2月6日、のちの人気レスラー(そして現在最古参レスラー)となる横田利美(ジャガー横田)戦でプロデビュー〔ジャガー横田オフィシャルブログ「ジャガジャガジャーン!おもちゃ箱」Powered by Ameba 20091103 〕。「タレント上がりはダメ」という陰口どおり、デビュー戦を皮切りに前座試合で連戦連敗を続け、87連敗という連敗記録をうち立てる〔。1981年まではまったく芽が出ず。
* 1980年にアメリカに渡り、ロバート・アルドリッチ監督、ピーター・フォーク主演の『カリフォルニア・ドールズ』に出演。この映画はロードムービーの名作として有名である。
* 1980年暮れから、元ボクサーのコーチが付き体力を増強、体重も60kgオーバーさせる〔。
* 1981年2月、横浜文化体育館で悪の実力者、池下ユミの保持するオールパシフィック王座に挑戦。強引なスモールパッケージホールドで王座を奪取する。前年の試合中にアクシデントで欠けた尾骶骨の一部が体内にあり、腰のヘルニアも悪化していたため引退を勧告されていたが、全日本女子プロレスの主要スタッフ松永国松によるハードなボクシング式トレーニングで見事再起。体重を10kg近く増加させて臨んだ最後のチャンスをモノにした。同じ日にジャガー横田がビューティ・ペアのジャッキー佐藤を破り、WWWA世界シングルチャンピオンとなった。この日を境に女子プロレス界の世代交代が行われ、敗れたジャッキー、池下は同年中に引退。悪役スターとしては同時期にデビル雅美が台頭し、池下のポジションを受け継ぐ。これによりジャガー、ミミ、デビルのトロイカ体制が誕生。数年後の、クラッシュギャルズによる女子プロレスブームに至る礎を築き上げる。
* 1981年より数年間、看板選手として会社側からの売り出しがかけられるようになる。露出度が高く、サポーターさえ着用できないハイレグ水着で試合を断行するセクシー路線を確立。賛否両論を呼んだ。相手に痛めつけられる苦悶の表情は世代を超え、いまなおカルト的な人気を誇っている。この時代の女子プロレスはヒールが八割方責めてベビーフェイスが一発逆転で勝利を収めるというパターンが多く見られたが、これはミミの持ち味を最大限に活かすために、選手全体で練り上げられた、ひとつの様式といえる。
* 1981年9月、オレンジハウスから「ミミ萩原」名義でシングルレコード「スタンド・アップ」発売〔。試合前に歌と踊りをリングで披露するというビューティ・ペア路線を踏襲。
* 1981年11月23日、「東大なんでもNo1」コンテスト"女子プロスポーツの部No1"に選ばれるなど、若者の注目を浴びる〔。
* 1982年、女子プロレスラーとしては史上初のヌード写真集『燃える青春』が愛宕書房より発売される。また講談社よりエッセイ『美しき夢色の日々』も発売される。
* 1984年4月1日、タランチェラ戦を最後に引退。元祖ビジュアル系女子プロレスラーとして大きな役割を果たした。
* ミミ萩原時代にもレコードを出しており、「セクシーパンサー」、「セクシー IN THE NIGHT」、「愛(アイリーン)鈴」、「スタンド・アップ」がある。
* その後、タレント・女優業に復帰しドラマ、舞台出演や、ヌードグラビアのモデルなどをする。この頃に結婚をしたが「夫が長男で跡継ぎをもうけなければいけない。私は女子プロレスで内臓を痛めているので出産が出来ない」と涙の会見を行い、スピード離婚している。
* 1993年にスピリチュアルな声を聞き広島市に転居。リトル・ペブルの「聖シャーベル修道会」の活動や、新興宗教「マリアン・オーソドックス・カトリック・チャーチ」の設立などに関わる。
* 1995年3月、会社員と結婚。
* 2005年、盟友ジャガー横田〔の呼びかけで、12月4日新宿FACE大会で、約20年ぶりにリング復帰(歌とライブパフォーマンス)した。
* アーティストとして「アティーナ」「萩原ミミ」の名前で、ライブ活動を行い、歌にダンスに幅広く活動をしている。ミミ自身は自らのダンスをアクロバティックダンスと称し男性ダンサーが女性ダンサーをリフトし回したり、ミミ自身、男性ダンサーの肩に立ち上がったり、命綱無しでのパフォーマンスを行っている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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