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ミハイル・カラシニコフ : ミニ英和和英辞書
ミハイル・カラシニコフ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ミハイル・カラシニコフ : ウィキペディア日本語版
ミハイル・カラシニコフ

ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフミハイール・ティマフィェーヴィチ・カラーシュニカフ1919年11月10日 - 2013年12月23日カラシニコフ氏が死去 自動小銃「AK47」を開発 - 朝日新聞DIGITAL、2013年12月24日〕〔M・カラシニコフ氏死去 自動小銃AK47生みの親 - スポニチアネックス、2013年12月24日〕)は、ロシアの軍人、銃器設計者、政治家。史上もっとも大量に製造され拡散しているアサルトライフルである「AK-47」(、1947年式カラシニコフ突撃銃)の設計者であり、第二次世界大戦後の旧ソ連を代表する銃器デザイナーである。
== 経歴 ==
カラシニコフの一族は元々クバン地方に暮らすコサックで、かつては「カラシニク()」という姓だった。ロシア風のカラシニコフという姓は、19世紀半ばに一族が農民になった頃に改めたものである。1910年、皇帝ニコライ二世がアルタイ地方への入植と引き換えに農地の譲渡を行うという政策を発表し、カラシニコフ家もこれに従い同地方クーリャ村に入植した。1919年、ミハイル・カラシニコフは18人兄弟の8人目として生を受ける。ただし、18人のうち生き残ることができたのは8人のみであり、カラシニコフが実際に何番目に生まれたのかは定かではない。一家は小さな丸太小屋に暮らし、カラシニコフは他の兄弟と共に農作業を手伝いつつ過ごした。幼少期は病弱な子供だったが外で遊ぶことを好み、また当時から何かを作ることに興味を持っていたという。
第一次五カ年計画が推し進められる中、やがてクーリャ村でも富農撲滅運動に関連した会議が盛んに開かれるようになり、1930年にはカラシニコフ家も富農に認定された。一家は財産のほとんどを没収された上に市民権を剥奪され、トムスク州のニージュニャヤ・マホヴァーヤ(Nizhnyaya Mokhovaya)という追放農民の集落に追放された。この時の貧しい暮らしの中で父が死去している。1934年、カラシニコフは集落を脱走して故郷クーリャ村へと向かった。しばらくは追放前に結婚して故郷近くの村に残っていた姉や兄たちの元で暮らしていたが、まもなく自らの居場所がないと感じた為にニージュニャヤ・マホヴァーヤに戻った。
1936年、コルホーズの会計係と共謀して再度脱走を遂げる。この際、パスポートの取得に必要な書類を偽造する為、検印と国の印章を偽造した。カラシニコフはのちに偽装印章について、「これこそ私の最初の発明品である」と語っている。また、再びクーリャ村に向かう途中、会計係の故郷であらかじめ隠してあった拳銃1丁を回収している。この為にカラシニコフらは地元警察に数日間拘束された。彼はこの拳銃の分解・組立・整備に熱中していたが、村を離れる際にばらばらにしてあちこちに捨てたという。カラシニコフはこの出来事こそが銃器への興味を抱くきっかけだったと回想している。その後は会計係の兄が鉄道員として働いていたカザフスタンに移り、寝台列車に寝泊まりしつつ、鉄道技師や鉄道機関区の政治局技術秘書として働いていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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