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ミナトクヰン事件 : ミニ英和和英辞書
ミナトクヰン事件[くだん, けん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

ミナトクヰン事件 ( リダイレクト:田中康三#ミナトクヰン事件 ) : ウィキペディア日本語版
田中康三[たなか こうぞう]

田中 康三(たなか こうぞう、1915年3月22日 - 1989年6月18日)は、日本騎手東京競馬倶楽部日本競馬会国営競馬)、調教師日本中央競馬会)。
第二次世界大戦前後の時期に花形騎手として名を馳せ、1941年秋の帝室御賞典や、戦後最初のダービー開催となった1947年の東京優駿などに優勝した。しかし1949年に自身が引き起こしたミナトクヰン事件を境に斜陽となり、1955年に調教師に転身。1989年に勇退〔するまで、それぞれ宝塚記念に優勝したエイトクラウンナオキ母子などを手掛けた。
== 来歴 ==
1915年、東京府南多摩郡忠生村に生まれる。尋常小学校卒業後、1933年9月に東京競馬場北郷五郎厩舎に騎手見習いとして入門した〔『調教師の本』304頁。〕。
1935年3月に騎手免許を取得、1940年に北郷が死去したことに伴い、弟弟子の前田長吉とともに尾形景造(尾形藤吉)厩舎に移籍した〔『調教師の本』307頁。〕。尾形厩舎ではエステイツで1941年秋の天皇賞に優勝するなど活躍したが、第二次世界大戦の激化により競馬開催の規模は徐々に縮小され、1944年の開催をもっていったん休止となった。休止期間中は尾形に伴って岩手県盛岡市に赴き、輓馬機動隊に編入されて馬の育成調教に従事した〔。
1946年の競馬再開に伴って騎手に復帰、秋季のみの短い開催であったが、39戦12勝の成績を挙げてリーディングジョッキーとなった。通年開催となった翌1947年には、マツミドリに騎乗して戦後最初の東京優駿(日本ダービー)を制した。以後数年間を有力騎手として活躍、ファンからも「康さん」の愛称で親しまれた〔『調教師の本』298頁。〕。しかし、1949年に起こしたミナトクヰン事件(別節にて詳述)を境に成績が落ち込み〔『調教師の本』303頁。〕、1955年に騎手を引退、調教師に転身した。
開業当初は東京競馬場に厩舎を構え、2年目にヒデホマレで中山改築記念を制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。1959年、中京馬主協会長を務めていた山口昇(愛知トヨタ自動車社長)の誘いを受け、厩舎を中京競馬場に移した〔『調教師の本』309頁。〕。1966年には山口の所有馬エイトクラウン宝塚記念に優勝(牝馬初)。1969年栗東トレーニングセンターに移ったあと、1975年にエイトクラウンの子ナオキでふたたび宝塚記念を制した。
以後も数頭の重賞勝利馬を管理し、1989年2月をもって調教師を勇退〔。同年6月18日、病気により74歳で死去。晩年は長く病床に臥せ、調教師活動はできていなかった〔『調教師の本』312頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田中康三」の詳細全文を読む




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