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ミテキ・クドー : ウィキペディア日本語版
ミテキ・クドー[ちょうおん]
ミテキ・クドー(Miteki Kudo、、1970年 - )は、フランスバレエダンサーである。
== 経歴 ==
父親が日本人(日本人舞踊家、工藤大貮)で母親がフランス人(パリ・オペラ座バレエ団エトワールだった)のハーフ。パリで生まれた。
幼いころから父母の舞台を観ていた彼女は、7歳からバレエを始めた。バレエを始めることについて父は賛成したが、母は最初反対していた〔『パリ・オペラ座のバレリーナ』10-11頁。〕〔『オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ』8-10頁。〕。その後母も折れ、両親の考えによって1981年に、パリ・オペラ座バレエ学校に入学した。その年のバレエ学校入学志望者は約800人いたが、彼女を含めて最終的に合格したのは12名のみだった〔『オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ』11頁。〕。バレエ学校では毎年試験があって、その成績が悪いと退学となってしまうため、バレエ学校の授業が終了した後も、パリ郊外にあった父のバレエ学校で夜9時半まで練習し、さらに土曜日も父と共に練習していた〔『オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ』12頁。〕。
1986年にバレエ学校を卒業し、パリ・オペラ座バレエ団に入団した。1981年にバレエ学校に一緒に入学した12人の仲間のうち、パリ・オペラ座にダンサーとして採用されたのは彼女を含めて2名のみだった。入団後キャリアを重ね、1997年、ピナ・バウシュ振付『春の祭典』のパリ・オペラ座初演では、「生贄」の役に抜擢された。この役柄は、彼女自身にクラシックバレエよりもコンテンポラリーダンスの方が自分の個性を発揮できることを気づかせ、クラシックバレエの踊り手からコンテンポラリーダンスの表現者への大きな転機を迎えることになった〔『パリ・オペラ座のバレリーナ』巻末インタビュー、164-166頁。〕〔『オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ』26頁。〕。コンテンポラリーでは、勅使川原三郎イリ・キリアンマギー・マランなどの作品も踊っている〔『パリ・オペラ座のバレリーナ』15頁。〕。2011年6月、引退。階級はスジェ。
日本では、資生堂のキャンペーンやネスレのCMなどに起用された経験がある〔1989-1993 - NCM-化粧品・日用品・流通 2011年5月28日閲覧。〕〔スーパークールズ資生堂CM80年代 2011年5月28日閲覧。〕〔新刊書籍「オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ」 フランス観光開発機構オフィシャルサイト 2011年5月28日閲覧。〕。バレエ公演でたびたび来日し、1993年1月に東京で開催された『ニューイヤー・エトワール・ガラ』では母ノエラ・ポントワと共演した。
バレエ団でしばしばパートナーを組んだ同僚、ジル・イゾアールとの間に2子あり〔『パリ・オペラ座のバレリーナ』149-160頁。〕〔『パリ・オペラ座のバレリーナ』巻末インタビュー、170-179頁。〕〔『オペラ座バレリーナのエコ・シックなパリ』49-63頁。〕。新書館の雑誌「ダンスマガジン」の連載をまとめた『パリ・オペラ座のバレリーナ』(2007年)などの著書がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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