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マンツィケルトの戦い : ミニ英和和英辞書
マンツィケルトの戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

マンツィケルトの戦い ( リダイレクト:マラズギルトの戦い ) : ウィキペディア日本語版
マラズギルトの戦い[まらずぎるとのたたかい]

マラズギルトの戦い(マラズギルトのたたかい、トルコ語:Malazgirt Savaşı、 Mache tou Manzikert)は、1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国セルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。
戦闘が行われた地名について、東ローマのギリシア語文献はアルメニア語の「マンツィケルト」(Mantzikert)〔現在はアルメニア語で "" ()。〕を転写した「マンツィケルト」(, Mantzikert)なる表記で記している。一方、セルジューク朝関連のペルシア語文献では「マラーズギルド」( ملازكرد Malāzgird)或いは「マナーズギルド」( منازكرد Manāzgird)などの表記を採り、アラビア語文献では「マナーズジルド」( Manāzjird)などとも記されている。
戦闘の主力は職業軍人である東西のタグマとそれより多い傭兵に頼っていた。アナトリアの徴募兵は早々と戦闘から遁走し生き残った。〔
マラズギルトの戦いの敗北は、東ローマ帝国にとって破滅的なもので、帝国の通常の国境防衛能力を弱体化させる内戦と経済的危機を引き起こした。

これは中央アナトリアに大量のトルコ系移民を招き、1080年までにがセルジューク朝によって獲得された。アレクシオス1世コムネノス (1081年-1118年)が帝国の安定性を回復させるのはこの戦い以後の30年に渡る内戦の後である。歴史家のThomas Asbridgeは「1071年に、セルジューク朝は帝国軍をマラズギルトの戦いで撃破し、歴史家たちはまだこれをギリシャ人にとっての完全なる逆転劇と考えていないが、鋭い挫折であった」〔Thomas S. Asbridge ''The Crusades'' (2010) p 27〕。
== 背景 ==
1038年に、ニーシャープールエスファハーンを拠点としてホラーサーン以西のイラン全土を支配下に置いたトゥグリル・ベクは、麾下のオグズテュルクメン)系テュルク遊牧民の軍勢を率いてアッバース朝の首都バグダードに入城し、トゥグリルはカリフカーイムからスルターンの称号を正式に許可され、セルジューク朝が開基されると、その勢力は西方のアゼルバイジャンシリア方面にのびていった。第2代スルターンとなったアルプ・アルスラーンの頃にはグルジアファーティマ朝治下のシリアに進出。さらにアルメニアに食指を動かした。
これが、東ローマ帝国との対立を生ずることになり、この戦いにいたった。
東ローマ帝国は中世には強大な勢力を誇っていたにもかかわらず、 帝国は軍事的に無能な皇帝、コンスタンティヌス9世コンスタンティノス10世の治世の下で衰退をはじめ、イサキオス1世コムネノスの2年の短期間の軍事改革がかろうじて帝国軍の崩壊を先延ばしにしていた。
東ローマ帝国が大セルジューク朝と接触を持ったのはコンスタンティノス9世の時代であり、アルメニアのアニであった。しかしコンスタンティノス9世はビザンツ帝国とセルジューク朝との間に和議を結んだ。この和議は1064年にセルジューク朝がアルメニアの首都アニを征服するまで続いた。
コンスタンティノス10世は前任者にたいして多くの不名誉を犯した。1067年にはアルメニアは、カエサリアに続いて、セルジューク朝によって奪われた。〔 — "The fate of Caesarea was well known."〕
1068年ロマノス4世は権力を握ると短期間にわずかの軍事改革ののち、甥のマヌエル・コムネノス(皇帝イサキオス1世コムネノスの甥)にシリアのヒエロポリス攻略の許可を与え、対セルジューク朝遠征にために軍を率いることをゆだねた。
ビザンツ帝国のシリアでの反撃が成功すると、トルコのイコニウム攻撃は阻止された。

しかし、マヌエルが敗れ、セルジューク朝の捕虜になると遠征は大失敗に終わった。
ビザンツ帝国の遠征の失敗にもかかわらず、アルプ・アルスラーンはすぐに東ローマ帝国と和平を模索し始めた。彼はエジプトファーティマ朝を主要な敵とみなしており、東ローマ帝国との無用な戦闘にかかわりたくはなかった。〔 それゆえ1069年に東ローマ帝国とセルジューク朝との間に平和条約が締結された。
1071年2月、ロマノスは1069年の条約更新のためにアルプ・アルスラーンに大使を派遣した。ロマノスの使節はエデッサの外のスルタンに到着したが、そこは彼が籠城しているところであった。ビザンツに対して北方のわきの安全を確保するために、アルプ・アルスラーンは幸いにもこの条件に同意した。
〔包囲が解けると、彼はすぐに軍を率いてアレッポのファーティマ朝の軍を攻撃した。しかし平和条約の更新の申し出は実は、ロマノスの計画の鍵であった。ロマノスが大軍を率いて、アルメニアに攻め込み、スルタンがそれに応戦する前に、失陥した要塞を回復するのに十分な時間スルタンから注意をそらすための鍵であった。〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マラズギルトの戦い」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Manzikert 」があります。




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