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マリー・カジミール・ド・ラ・グランジェ・ダルキアン : ミニ英和和英辞書
マリー・カジミール・ド・ラ・グランジェ・ダルキアン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

マリー・カジミール・ド・ラ・グランジェ・ダルキアン ( リダイレクト:マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン ) : ウィキペディア日本語版
マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン[らん]

マリー・カシミール・ルイーズ・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン(Marie Casimire Luise de la Grange d'Arquien, 1641年6月28日 - 1716年1月1日)は、ポーランドヤン3世ソビエスキの王妃。ポーランド語名ではマリア・カジミェラ(Maria Kazimiera)と呼ばれ、マリシェンカ(Marysienka)の愛称で知られた。
== 生涯 ==
フランスの貴族アンリ・アルベール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン侯爵の娘として、ヌヴェールで生まれた。5歳の時、ポーランド王ヴワディスワフ4世へ輿入れするルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガに侍女として同行し、ポーランドへやってきた。1656年に宮廷へやってきたヤン・ソビエスキと出会うが、2年後マリーは共和国最有力の貴族の一人であるキエフ県知事ヤン・ソビエパン・ザモイスキと結婚した。ザモイスキと1665年に死別すると、同年7月にヤン・ソビエスキと再婚した。
1672年にヤン・ソビエスキはポーランド王に選出されるが、マリーの影響なしには叶わなかったといわれる。ポーランド王妃として、マリーはフランスの親族が特権を得られるようルイ14世に要求し、またフランスとの同盟関係締結に奔走した。ヤンとマリシェンカの仲睦まじさは、1665年から1683年の間に交わした多くの恋文によって知られている。ヤンの戦争による不在、マリーの私的パリ訪問などの間に書かれたもので、2人の死後に出版された。
夫が晩年になって長男ヤクプ・ルドヴィクを後継の国王にしようと画策し始めると、マリシェンカはこれに反対し、娘婿のバイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルを支持したが、新王に選ばれたのはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト(アウグスト2世)であった。マリシェンカは1716年、母国フランスのブロワで亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marie Casimire Louise de La Grange d'Arquien 」があります。




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