翻訳と辞書
Words near each other
・ マダガスカルの国歌
・ マダガスカルの国章
・ マダガスカルの地方行政区画
・ マダガスカルの大統領
・ マダガスカルの戦い
・ マダガスカルの政党
・ マダガスカルの政党一覧
・ マダガスカルの文化
・ マダガスカルの旗
・ マダガスカルの木
マダガスカルの歴史
・ マダガスカルの空港の一覧
・ マダガスカルの軍事
・ マダガスカルの通貨
・ マダガスカルの都市の一覧
・ マダガスカルの野鳥
・ マダガスカルの野鳥一覧
・ マダガスカルの鉄道
・ マダガスカルの銀行の一覧
・ マダガスカルウツボカズラ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

マダガスカルの歴史 : ミニ英和和英辞書
マダガスカルの歴史[まだがすかるのれきし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 

マダガスカルの歴史 : ウィキペディア日本語版
マダガスカルの歴史[まだがすかるのれきし]
マダガスカルの歴史(マダガスカルのれきし)ではマダガスカル共和国歴史の概要について述べる。
== 古代・ヨーロッパ人到達以前 ==
マダガスカルの最初の住人は、アウトリガーカヌーの存在や言語学の研究から、東南アジア島嶼(とうしょ)部から渡ってきたことは確実視されていたが、2005年に発表されたマシュー・ハールスによるDNA研究により、1世紀前後、ボルネオ島から航海カヌーインド洋を横断してマダガスカルに移り住んだことがほぼ確実視されるようになった。その後、アフリカ大陸東部から渡ってきた人々とボルネオ系(マレー・ポリネシア系)の人々は混血し、ヨーロッパ人到達以前にそのDNA上の比率は半々になっていたと考えられる。
なお、ボルネオ系のDNAはボルネオとマダガスカル島の間のインド洋沿岸では見つかっていないため、ボルネオの人々は直接マダガスカル島まで航海した可能性が強い。この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れているが、赤道無風帯も通過する必要がない上、常に貿易風が追い風となる航海であるため、当時の東南アジア島嶼部の海民の技術レベルならば充分に現実的な航海である。ボルネオ島からジャワ海を渡って、スマトラ島かジャワ島で補給をすれば、さらに難易度は下がる。ジャワ島からマダガスカル島まで6,000kmとしても、平均時速5ノットで帆走出来れば30日弱で到達することができる。
文献にマダガスカルの存在が初めて登場したのは、ギリシャプトレマイオスによるメヌティアスという島についての記述だといわれている。このメヌティアスがマダガスカルだというのが有力である(異論も存在する)。より可能性が高いと思われる文献は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』である。『東方見聞録』では大きな島の記載があるが、マルコ・ポーロはソマリアモガディシュ地方と勘違いして、マダガスカルと誤って紹介した。これがマダガスカルの名前の由来となっている。
一方で、アラブ世界ではマダガスカルは古くから知られていた。アラブの地図で、マダガスカルは、Gezirat Al-Komor月の島の意味)の名前がついていた。Komorの名前は、マダガスカル北西にあるコモロ諸島にその名が残っている。また、アラブ人は、9世紀ごろからマダガスカルに進出。さらにアラブ商人達は、東アフリカから連れてきた黒人達を奴隷として、マダガスカルに連れてきた。これにより沿岸部の諸族は交易による富を築いた。
マダガスカル島の北部には、11世紀から12世紀にかけてインド洋交易とともに東アフリカの沿岸交易で栄えた港湾遺跡があり、沿岸交易の輸出品として緑泥片岩製の容器が生産されていたことがタンザニアキルワ遺跡からの出土品からも判明している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マダガスカルの歴史」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.