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マサッチオ : ウィキペディア日本語版
マサッチオ

マサッチオまたはマザッチオ(, 1401年12月21日 - 1428年)は、ルネサンス初期イタリア人画家フィレンツェ共和国サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ生まれで、本名はトンマーゾ・ディ・セル・ジョヴァンニ・ディ・モーネ・カッサーイ (Tommaso di ser Giovanni di Mone Cassai)。ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によれば、まるで生きているかのように人物とその身体の動きを再現する能力と自然な三次元描写能力から、マサッチオが当時最高の画家であったとされている〔Giorgio Vasari, ''Le Vite de' piu eccellenti pittori, scultori ed architettori,'' ed. Gaetano Milanesi, Florence, 1906, II, pp.287-288.〕。「マサッチオ」という愛称は本名の「トンマーゾ(Tommaso)」の短縮形「マーゾ(Maso)」からきており、「不恰好」あるいは「だらしない」男を意味する。このような愛称がつけられたのは、マサッチオの師ではないかともいわれている画家の名前もトンマーゾ(・ディ・クリストフォーロ・フィーニ)であり、同じく短縮形のマーゾからきた「小さな男」を意味するマソリーノと呼ばれていたことと区別するためと考えられている。
マサッチオは短命な画家だったが、他の芸術家たちに多大な影響をあたえた。マソリーノの画風が中世・ゴシック風を色濃く留めるのに対し、マサッチオの画風は現実的な人物表現や空間把握、人物の自然な感情の表現など、初期ルネサンスの画風を革新した。作品に最初に透視図法を使用した最初の画家の一人であり、絵画に消失点などの概念を導入した最初の画家だった。それまでの芸術で主流だった国際ゴシック様式のイタリア人画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノたちが描いていた複雑で装飾的な表現ではなく、遠近法やキアロスクーロなどを用いることによってより自然で写実的な絵画を描いた。
== 前半生 ==
マサッチオはジョヴァンニ・ディ・シモーネ・カッサーイとヤーコパ・ディ・マルティノッツォの息子としてカステル・サン・ジョヴァンニ・ディ・アルトゥーラで生まれた。この生誕地は現在のイタリアトスカーナ州アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにあたる〔John T. Spike, ''Masaccio,'' New York: 1996, 21-64, and Diane Cole Ahl, ''The Cambridge Companion to Masaccio,'' Cambridge, 2002, 3-5.〕。父ジョヴァンニは公証人で、母ヤーコパはフィレンツェ南部バルベリーノ・ディ・ムジェッロの宿屋の娘だった。家名の「カッサーイ」は父方の祖父シモーネと大叔父ロレンツォが家具職人(「casse あるいは cassai)だったことによる。父ジョヴァンニはマサッチォが5歳の1406年に死去した。同じ年に弟ジョヴァンニ(1406年 - 1486年)が生まれており、後にロ・スケッジャ(破片)という愛称で呼ばれる画家になっている〔On Giovanni's career, see Luciano Bellosi and Margaret Haines, ''Lo Scheggia,'' Florence, 1999.〕。1412年に母ヤーコパは年上の薬剤師フェオと再婚し、フェオの連れ子が後にカステル・サン・ジョヴァンニ出身の画家マリオット・ディ・クリストファーノ(1393年 - 1457年)と結婚したという記録が残っている。
マサッチオが正式に絵画の修業を積んだという記録は残っていない。ヴァザーリの著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の第2版には、マソリーノがマサッチオの師だったことをほのめかす記述がある〔ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』第2版 p.295〕 。しかしながらマサッチオの最初期の作品として知られる『サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画』はマソリーノの作風とは全く異なっており、二人が師弟関係にあったとするのは無理があるとする美術史家が多い〔Luciano Berti, "Masaccio 1422," ''Commentari'' 12 (1961) pp.84-107〕。現代の研究者たちは他にも、マリオット・ディ・クリストファーノ、ビッキ・ディ・ロレンツォ、ニッコロ・ディ・ラポなど、以前にマサッチオの師ではないかと考えられた画家たちの誰のもとでも修行はしていないと考えている。近年の研究では、マサッチオは画家ではなく装飾写本作家としての修業をしていたのではないかとする見解もある 〔Roberto Bellucci and Cecilia Frosinini, "Masaccio: Technique in Context," in ''The Cambridge Companion to Masaccio,'' ed. Diane Cole Ahl, Cambridge, 2002, pp.105-122.〕。
ルネサンス期の画家たちは、通常12歳くらいから師匠(マスター)に就いて徒弟として修業した。マサッチオもフィレンツェに住居を移したのは修業のためだと考えられているが、当時の記録は残っていない。マサッチオの名前が初めてフィレンツェの文書にあらわれるのは1422年1月7日の記録で、すでに一人前の画家として画家ギルド (the Arte de' Medici e Speziali) の一員になってからのことだった〔"Masus S. Johannis Simonis pictor populi S. Nicholae de Florentia." と記載されている〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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