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ポンペイ遺跡 : ミニ英和和英辞書
ポンペイ遺跡[せき, あと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

遺跡 : [いせき]
 【名詞】 1. historic ruins (remains, relics) 
: [せき, あと]
 【名詞】 1. (1) trace 2. tracks 3. mark 4. sign 5. (2) remains 6. ruins 7. (3) scar 

ポンペイ遺跡 ( リダイレクト:ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域 ) : ウィキペディア日本語版
ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域[ぽんぺい]

ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(ポンペイ、ヘルクラネウムおよびトッレ・アンヌンツィアータのいせきちいき)は、西暦79年ヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれてしまったポンペイヘルクラネウム(現エルコラーノ)の都市遺跡およびトッレ・アンヌンツィアータヴィラの遺跡を対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。1997年世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件登録されたが、これはそのうちの1件である。
== 歴史 ==

紀元前6世紀に建設されたとされるポンペイは〔青柳正規「都市と住宅」(青柳 (2001) p.44)〕〔建設年は青柳 (2001) p.44や ICOMOS (1997) p.49 に依拠した。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版』(ブリタニカ・ジャパン、2011年)でも紀元前6世紀頃となっているが、『コンサイス外国地名事典』第3版(三省堂)では紀元前8世紀までには建設されていたとされ、『ミシュラン・グリーンガイド イタリア』では紀元前8世紀、『ビジュアルワイド世界遺産』では紀元前7世紀とされている。〕、紀元前80年以降ローマの傘下に入った〔フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.226〕。当時のポンペイは海に面した港町で、ローマの文化が多く流入する中で発展していた。港は地中海貿易の拠点として栄え、長らく噴火のなかったヴェスヴィオ山の斜面ではブドウなどの栽培が営まれていた〔水村 (2004) pp.150-151〕。ポンペイでは羊毛加工と並び、ワインの醸造が主要な経済活動のひとつとなっていたのである〔アンナマリア・チャラッロ、エルネスト・デ・カロリス「ポンペイの日常生活」野中夏実訳(青柳 (2001) p.88)〕。
しかし、1世紀には地震が頻発するようになり、西暦62年2月に、その中でも特に規模の大きい地震が一帯を襲い、ポンペイのみならず、近隣の高級保養地ヘルクラネウムなどにも大きな被害をもたらした〔ジュゼッペ・ルオンゴ、アンナマリア・ペッロッタ、クラウディオ・スカルパティ「79年の噴火」藤沢(今井)桜子抄訳(青柳 (2001) pp.18-19)〕。現代では、これらの地震はヴェスヴィオ山の活動と関連があったと見なされているが、当時の人々は62年の大地震によって災害のピークは過ぎたと誤認していたという〔。そして震災からの復興の途上にあった西暦79年8月24日にヴェスヴィオ山は大噴火した。この噴火は13時頃に始まり、水蒸気爆発のあと、大量の軽石が噴出し、周囲に堆積していった〔。軽石の堆積は1時間当たりにおよそ15cmのペースであったとされ、同じ日の18時には屋根に堆積した軽石によって潰される家屋が出はじめたという〔。この間、断続的に火砕流が起きたと考えられているが、その最大規模のものは翌朝7時に発生し、周辺の町を住民もろとも飲み込んだ〔。大プリニウスも近隣の町でその火砕流に遭遇し、命を落とした〔。噴火はその火砕流の少し後、8時頃まで実に約19時間持続していたという〔。
ポンペイも周辺の遺跡も埋もれたままになっていたが、16世紀には建築家ドメニコ・フォンターナが水路建設の途中で建物の一部を発見した。しかし、このときはまだ遺跡の全体像は認識されていなかった〔エルネスト・デ・カロリス「ポンペイ発掘史」(青柳 (2001) pp.20-21)〕。転機となったのは18世紀にヘルクラネウムの遺跡が発見されたことである。これを契機に1748年からブルボン家のカルロが主導する形でポンペイの発掘調査も始められた〔。1760年に建築家のフランチェスコ・ラ・ヴェーガが発掘作業の指揮を執るようになると、より体系的な発掘調査が行われるようになり、町の南部で大小の劇場だけでなく、エジプトの神イシスを祀る神殿も発見された〔。
19世紀に入ると、まず1812年から13年の調査でフォルムなどが発見され、1830年には「アレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦い」をはじめとするモザイクで飾られた「ファウノの家」などが出土した〔。そして、1863年に考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが、火山灰土中の空洞に石膏を流し込むという手法で、火砕流に巻き込まれた後、遺体が分解した人々の最期の姿を復元する手法を導入した〔。1875年まで指揮を執ったフィオレッリは、発掘手法の進歩にも貢献し、彼が退いた後も、次々に重要な建造物は発見された〔。すでに全体の8割が発掘されているといわれるが、残りの2割の発掘はあまりなされていない。これは新しい発掘よりも、既存の出土品・遺跡を後の時代へと伝えていくことの方が重視されるようになっているためである〔青柳 (2001) p.24〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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