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ボナパルト朝 : ウィキペディア日本語版
ボナパルト朝[ぼなぱるとちょう]
ボナパルト朝(ボナパルトちょう、dynastie des Bonaparte)は、19世紀フランスに興った王朝。一時はフランス本国のみならず、一族が周辺諸国の君主にもなった。
== 歴史 ==
ボナパルト家コルシカ島の小さな貴族の家柄であったが、一族のナポレオン・ボナパルトが1799年にブリューメル18日のクーデター第一統領に就任し、その後自らを「フランス人の皇帝」に推戴させる選挙を行い、圧倒的な賛成で1804年に皇帝ナポレオン1世として即位した(フランス第一帝政)。
ナポレオン1世はヨーロッパ各国に侵攻すると、自分の兄弟や親類を征服地の国王や大公に仕立て上げた。
*父:シャルル・マリ・ボナパルト - コルシカ島貴族
*兄:ジョゼフ・ボナパルト - 当初はナポリ王(ジュゼッペ1世)、後にスペイン王(ホセ1世)。
*弟:リュシアン・ボナパルト - カニノ公
*妹:エリザ・ボナパルト - トスカーナ大公
*弟:ルイ・ボナパルト - ホラント王(ローデウェイク1世)・ベルク大公クレーフェ大公・サン=ルー伯
 *甥:ナポレオン・ルイ・ボナパルト - ホラント王(ローデウェイク2世)
*弟:ジェローム・ボナパルト - ヴェストファーレン王
*養子:ウジェーヌ・ド・ボアルネ - イタリア副王(国王はナポレオンが兼ねた)
*実子:ナポレオン2世 - ローマ王・ライヒシュタット公
*妹婿:ジョアシャン・ミュラ - ナポリ王(ジョアッキーノ1世)、妻はカロリーヌ・ボナパルト
彼らは必ずしも私欲に走ったりナポレオンに追随したわけではなく、ホラント王のルイやナポリ王のミュラなどのように、現地の利益にある程度配慮した政策を行って支持を得る一方、ナポレオンと不和になったり廃位させられた者もいる。いずれにしても、彼らはナポレオンの失脚とともに没落した。
上記の他、兄嫁の妹で元婚約者であるデジレ・クラリーの夫ジャン=バティスト・ベルナドットスウェーデンの王太子に据えているが、ナポレオンに敵対する道を選んだベルナドットは、ナポレオン失脚後もその地位を保ってスウェーデン王位に就き、現在まで続くベルナドッテ王朝の祖となった。のちに、ジャン=バティスト改めカール14世ヨハンとデジレの息子であるオスカル1世が、ウジェーヌ・ド・ボアルネの娘ジョゼフィーヌを王妃としている。
ナポレオン1世の没落から約30年後の1848年、ルイ・ボナパルトの三男ルイ=ナポレオン・ボナパルトが、第二共和政の下で行われた最初の大統領選挙に当選し、1852年にはクーデターと選挙によって帝政を復活させ、ナポレオン3世として即位した(フランス第二帝政)。
しかし、スペインの王位継承権問題がきっかけで1870年にプロイセン王国と開戦(普仏戦争)したが、戦局はフランス不利に傾く。セダンの戦いでナポレオン3世自ら前線に赴いたが敗北し、皇帝自らが捕虜になった。皇太子であるナポレオン4世は帝位に就かず、皇太子のまま政務を執ったが、パリ民衆の暴動のために2日間でイギリスに亡命した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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