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ボストン・レッドスキンズ : ミニ英和和英辞書
ボストン・レッドスキンズ[ぼすとん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ボストン : [ぼすとん]
 【名詞】 1. Boston 2. (n) Boston

ボストン・レッドスキンズ ( リダイレクト:ワシントン・レッドスキンズ ) : ウィキペディア日本語版
ワシントン・レッドスキンズ[ぼすとん]

ワシントン・レッドスキンズ (Washington Redskins) は、ワシントンD.C.都市圏に本拠地を置くNFLチームである。NFC東地区に所属している。チームの評価額はフォーブスによれば15億5000万ドルでダラス・カウボーイズに次いでNFL第2位となっている.〔http://www.forbes.com/lists/2009/30/football-values-09_NFL-Team-Valuations_Value.html〕。2007年まで8年連続観客動員リーグ1位となっている〔Redskins Set NFL Attendance Record In '07 ワシントン・レッドスキンズHP 2008年3月31日〕。リーグチャンピオンシップゲームに11回出場し、そのうち5回優勝(1937年、1942年のNFLチャンピオンシップゲーム及びスーパーボウルを3回制覇している。レッドスキンズよりもスーパーボウル出場回数が多いチームはダラス・カウボーイズ(8回)、ピッツバーグ・スティーラーズ(7回)、デンバー・ブロンコス(6回)、ニューイングランド・ペイトリオッツ(6回)の4チームだけでありサンフランシスコ・フォーティナイナーズオークランド・レイダーズマイアミ・ドルフィンズと並んで5回出場を果たしている。
チームの黄金期はこれまでに2度あり1936年から1945年にNFLチャンピオンシップゲームに6回出場し2回優勝、1982年から1991年にプレーオフ出場7回、地区優勝4回でスーパーボウルに4回出場し3回優勝を果たしている。一方1946年から1970年まで長く低迷しプレーオフから遠ざかり、この間の勝ち越しは1956年と1968年の2回のみ、1961年にはチーム史上最悪の1勝12敗1分に終わっている。
プレーオフ出場は22回でプレーオフ通算成績は23勝17敗である。
== 歴史 ==

=== 創設から1945年まで ===
マサチューセッツ州ボストンで1932年7月9日にジョージ・プレストン・マーシャルオーナーらによって創設された。チーム名はボストン・ブレーブス。10月2日にブルックリン・ドジャースとの初戦は0-14で敗れたが翌週のニューヨーク・ジャイアンツ戦で14-6と初勝利をあげた。1年目は46,000ドルの赤字を出したため、マーシャル以外のオーナー陣はチーム経営をあきらめてマーシャルが単独オーナーとなった。
翌1933年、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークに移った際に、ボストン・レッドスキンズと名称を変更した(この名称に対してスー族から抗議があったがマーシャルオーナーは愛称を変更しなかった。)。フェンウェイパークに移ったことは失敗で観客も少なかった。
1936年、初のNFLドラフトで全体2位指名権を獲得したチームはアラバマ大学ブロッキングバックライリー・スミスを獲得した。この年ドラフト全体1位で指名されたハイズマン賞受賞者のジェイ・バーワンガーはプロ入りしなかったためスミスがNFLドラフトで最初に指名されたNFL選手となった。この年のドラフトでチームはエンドのウェイン・ミルナーも獲得、彼はオフェンスで重要な役割を果たす選手となった。1936年にマーシャルオーナーはヘッドコーチにレイ・フラハティを起用した。フラハティは地区優勝4回、NFLチャンピオンに2度輝いた。
1936年、チームは4勝5敗から3連勝して7勝5敗と初の勝ち越し及び地区優勝を果たした。しかし地元フェンウェイパークで行われたレギュラーシーズン最終戦のピッツバーグ・スティーラーズ戦は4,813人しか観衆が入らなかったためマーシャルオーナーはホームフィールドアドバンテージを放棄し、NFLチャンピオンゲームニューヨークポロ・グラウンズで行われたが、6-21でグリーンベイ・パッカーズに敗れた。
1937年、チームはワシントンD.C.に移転、ワシントン・レッドスキンズとなった。当初チームはワシントン・セネターズの本拠地であったグリフィス・スタジアムを本拠地とした。移転した最初の年、その後プロフットボール殿堂入りを果たすテキサス・クリスチャン大学出身の新人QBサミー・ボウをドラフトで獲得、彼の活躍もありチームは28-21でシカゴ・ベアーズを破りNFLチャンピオンとなった。サミー・ボウは、コーナーバックパンターとしてもプレイした。1940年のNFLチャンピオンシップゲームはシカゴ・ベアーズとの再戦となったがチームは0-73とNFL史上一番のワンサイドゲームで敗れた。1942年、再びシカゴ・ベアーズを14-6で破り2度目のNFLチャンピオンになった。1943年サミー・ボーがその年のパス記録、パント記録、インターセプト記録のトップとなる活躍を見せチームはNFLチャンピオンシップゲームに進出したがシカゴ・ベアーズとの対戦では21-41で敗れ2年連続のNFLチャンピオンは逃した。
1944年にパリオリンピックラグビーで金メダリストとなったダドリー・デグルートがヘッドコーチとなった。1945年、サミー・ボーが70.3%のパスを成功させ、チームは8勝2敗の成績を残した。NFLチャンピオンシップゲームまで進出したがクリーブランド・ラムズに14-15と1点差で敗れた。この試合でサミー・ボーが自陣5ヤードから下がって投げたパスがゴールポストを直撃し〔当時ゴールポストはエンドラインにあった。〕セイフティとなった。この判定に激怒したマーシャルオーナーはルール改正を働きかけ、翌年からこうしたケースはパス不成功とすることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ワシントン・レッドスキンズ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Washington Redskins 」があります。




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