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ペレ : ウィキペディア日本語版
ペレ

ペレ (Pelé ) こと、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento , 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手アフリカ系ブラジル人
サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録したその実績から「サッカーの王様(、)〔」、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。
== 生い立ち ==
ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン (Edson)」と名付けられた〔ペレ 2008、17頁〕。しかしペレの出生証明書には「エジソン (Edison)」と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない〔。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称)はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた〔ペレ 2008、18-19頁〕。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり〔〔リベイロ、レモス 2008、16頁〕、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが膝を痛めて退団〔。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった〔。
1944年サンパウロ州バウルのサッカークラブに移籍したことを契機に家族でバウルへ引越し、選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した〔ペレ 2008、22頁〕。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた〔ペレ 2008、22-25頁〕。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた〔ペレ 2008、25頁〕。ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていた〔ペレ 2008、26-27頁〕が、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった〔ペレ 2008、46-47頁〕。
ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bilé) 」のファンであったことに由来している〔ペレ 2008、50-52頁〕。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pelé」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エドソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けた〔。
またペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」〔ペレ 2008、53頁〕、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた〔〔ペレ 2008、50頁〕〔ウィリアムズ 2007、61頁〕。
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。優勝候補の本命と目されていた〔ペレ 2008、54-56頁〕同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた〔。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった〔。ペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうとと約束したという。
10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。1954年に地元のが下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のに出会い指導を受けることになった。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え〔ペレ 2008、62頁〕、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった〔ペレ 2008、61頁〕。ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った〔ペレ 2008、68頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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