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ベルナルディーノ・ルイーニ : ミニ英和和英辞書
ベルナルディーノ・ルイーニ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ベルナルディーノ・ルイーニ : ウィキペディア日本語版
ベルナルディーノ・ルイーニ[ちょうおん]

ベルナルディーノ・ルイーニBernardino Luini, 1480年/1482年頃 - 1532年)は、イタリアの画家。レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けている。ルイーニとジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオの2人とも、レオナルドと直接仕事したと言われている。『自分の生まれながらの根底が彼を包み込むことができたように、レオナルドから多くをもたらされた。』と記述された〔Freedberg, 1993, p. 390.〕。彼の作品の多くが結果としてレオナルドの作品とみられてきた。彼は特に、ウラジーミル・ナボコフが『ルイネスク』(Luinesque)と呼んだ、うっすらと開いた目をした優雅な女性像で知られる〔"Luinesque eyes... God, how I kissed them..." ("La Veneziana", 1924).〕。
==生涯==

ルイーニは、ベルナルディーノ・デ・スカピス(Bernardino de Scapis)として、マッジョーレ湖近郊のドゥメンツァ分離集落、ルーノで生まれた。彼の生涯の詳細は非常に乏しい。
1500年、彼は父親とともにミラノへ移った。ロマッツォによると、彼はジョヴァン・ステファノ・スコットの元で修行を積んだ。また、アンブロジオ・ベルゴニョーネの弟子であったともいう。1504年から1507年、彼はおそらくトレヴィーゾにいた。誰の作品が論議を呼んでいた『聖母子』に''Bernardinus Mediolanensis faciebat''との署名がされており、それを証拠とするとである。この時期からエステルゴムのキリスト教美術館にある『聖母子』の一つが描かれ、『死んだキリストの哀悼』(1506年頃、ブダペスト美術館所蔵)が描かれた。彼の最初のフレスコ画は、ルイーノのサン・ピエトロにある『聖マギの崇拝』(1505年頃)、そしてモンツァ聖堂の司祭館にあるフレスコ画『聖ゲラールドと画家たち』である。
1509年、ルイーニはミラノへ戻り、『パドヴァの聖アントニウス』(ポルディ・ペッツォーリ美術館所蔵)の制作依頼を受けた。この絵はベルナルディーノ・ザナーレの『カントゥ多翼祭壇画』に影響を受けている。1510年代、彼はピラストレッロのサンタ・マリア・ヌオヴァ礼拝堂内のフレスコ画、サンタ・マリア・デッラ・パッショーネ内の『死んだキリストの哀悼』、キアラヴァッレ修道院の『聖母子』、サン・ジョルジョ・ディ・パラッツォ教会のフレスコ画(1516年)、パヴィーア修道院内フレスコ画など多くを手がけた。
1509年から1514年、ルイーニの最高作として知られるものの一つ、セスト・サン・ジョヴァンニにあるヴィッラ・ペルッカのフレスコ画を手がけた(現在ブレラ美術館蔵)。これはジローラモ・ラビアに命じられた仕事である(パラッツォ・ラビア内に、神話を主題とした絵画を制作した(現在はベルリン美術館ナショナルギャラリーにある)。
1521年、彼はローマへ旅行し、そこでラファエロ・サンティの影響を受けた。これは1520年から1523年に実行されたヴィッラ・ラ・ペルッカのフレスコ画に影響をみてとれる。現在ブレラ美術館にある他の作品も同様である。1523年から、レニャーノのサン・マニョ聖堂の美しい多翼祭壇画を製作した。
1525年前後に、彼は聖母マリアとキリストの生涯を描いたフレスコ画を、サロンノにあるサンタ・マリア・デイ・ミラーコリの内陣に完成させた。同じ年、コモのサンタッボンディオ教会のファサードにフレスコ画を描いたのも彼である。他の彼の中期の作品には、『聖家族』(プラド美術館蔵)、2つある『サロメ』(ボストン美術館蔵と、ウフィツィ美術館蔵)、『貴婦人の肖像』(ナショナル・ギャラリー蔵)である。1526年から、『聖母子と聖人たち』(リー・フェアハム・コレクション蔵)が制作された。
1529年、ルイーニは自らの傑作の一つ、巨大な『情熱と磔刑』(ルガーノにあるサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会のフレスコ画)を完成させた。同じ教会内で、他の作品と対にされている。1531年、彼はサロンノの内陣製作へ戻っていき、他のフレスコ画を加えた。彼は晩年、レオナルドによる影響をさらに強めた。『聖アンナ』(アンブロジアーナ絵画館蔵)、『聖カタリナ』(エルミタージュ美術館蔵)にそれが見られる。
ルイーニはミラノで死んだ。息子のアウレリオは画家となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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