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ベネデット・クローチェ : ミニ英和和英辞書
ベネデット・クローチェ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ベネデット・クローチェ : ウィキペディア日本語版
ベネデット・クローチェ[ちょうおん]

ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce、1866年2月25日 - 1952年11月20日)は、イタリア哲学者歴史学者ヘーゲル哲学と生の哲学を結びつけ、イタリア精神界に大きな影響を与えた。
== 生涯 ==
1866年、ペスカッセーロリに生まれた。1883年7月28日、イスキアでの休暇中、カサミッチョラの地震で家族を失い、ローマの親戚シルヴィオ・スパヴェンタの家へ転居した。ローマではサピエンツァ大学に通い、1884年、アントニオ・ラブリオーラと知り合った。1886年、ナポリへ転居、ジュスティーノ・フォルトゥナートサルヴァトーレ・ディ・ジャーコモと知り合った。
1901年、出版人ジョヴァンニ・ラテルツァと出会い、以後、主要著作はラテルツァ出版社から刊行される。1903年、ジョヴァンニ・ジェンティーレとともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場をとり、精神哲学体系諸著作を次々と発表した。1913年、ジュゼッペ・プレッツォリーニの雑誌『ヴォーチェ』でジェンティーレと哲学論争をおこなう。政治活動としては、1910年に上院議員に選出され、戦間期においては、ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣の文部大臣をつとめた。ファシズムが台頭するに及んで、これを支持する姿勢もみせ、1924年、統一社会党のジャコモ・マッテオッティが暗殺されたときも、クローチェは上院における信任投票でベニート・ムッソリーニの政府に信任票を投じている。1925年ころより、クローチェは反ファシストの立場に転じ、その後は一貫してファシズム批判を続けた。ムッソリーニ政権下でも『クリティカ』誌を発刊し続け、ファシズムを攻撃した。1929年にムッソリーニとローマ教皇が結んだ政教和約(ラテラノ条約)に反対し、議員を辞職した。
主著は『表現の科学および一般言語学としての美学(''L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale'')』(1902年)、『歴史叙述の理論と歴史(''Teoria e storia della storiografia'')』(1917年)。「すべての歴史は現代史である。」という言葉で知られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベネデット・クローチェ」の詳細全文を読む




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