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ヘンリエッタ・ナギョワ : ウィキペディア日本語版
ヘンリエッタ・ナギョワ

ヘンリエッタ・ナギョワHenrieta Nagyová, 1978年12月15日 - )は、スロバキアノヴェー・ザームキ出身の女子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス37位。WTAツアーでシングルス9勝、ダブルス4勝を挙げた。身長177cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
== 来歴 ==
両親とも化学技師の家庭に生まれたナギョワは、1994年1月に15歳でプロ入りした。1995年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップスロバキア代表選手になり、7月22日・23日に行われた「ワールドグループ2部・プレーオフ」の対パラグアイ戦で代表デビューを果たす。 1993年チェコスロバキアが連邦解体したことにより、チェコ共和国とスロバキア共和国が独立国家となり、「スロバキア」チームとしてのフェドカップ初参加は1994年であった。ナギョワはその最初期から、スロバキア女子の代表選手として不可欠な存在になった。1996年全仏オープン4大大会に初出場し、同年9月22日にポーランドワルシャワ大会でツアー初優勝を達成。翌1997年全豪オープンメアリー・ジョー・フェルナンデスとの3回戦に進み、11月末のタイパタヤ市大会でツアー2勝目を挙げた。
ヘンリエッタ・ナギョワは1998年に、4大大会のシングルスで自己最高成績を出し、全豪オープン全仏オープンの2大会連続で4回戦に進出した。全豪オープン4回戦では、第5シードのマリー・ピエルスから1ゲームも取れず、全仏オープン4回戦では第8シードのビーナス・ウィリアムズに 1-6, 1-6 で敗れた。ウィンブルドンでは、2回戦で左膝の故障による長期療養から復帰した第4シードのシュテフィ・グラフに敗れている。ナギョワはウィンブルドンが不得意で、初戦突破は1998年2004年の2度だけであった。
2000年は女子ツアーで年間3勝を挙げ、シドニー五輪にもスロバキア代表選手として出場したが、シングルス1回戦でビーナス・ウィリアムズと当たってしまい、当時絶好調だったウィリアムズに 2-6, 2-6 で敗れた。2001年、ナギョワは全仏オープンで3年ぶり2度目の4回戦進出を果たす。この大会では、前年のシドニー五輪で女子シングルス銀メダルを獲得したエレーナ・デメンチェワを2回戦で破ったが、4回戦でベルギーの新鋭キム・クライシュテルスに 4-6, 6-4, 3-6 のフルセットで敗れた。結局、ナギョワは4大大会シングルスでベスト8に勝ち残ることができなかった。
2002年は、スロバキアがフェドカップで初優勝を果たした年である。それまで8年間スロバキア・チームの代表選手を務めてきたナギョワも、この優勝メンバーの一員であった。この年にテニス成績を伸ばしたダニエラ・ハンチュコバだけでなく、ナギョワやヤネッテ・フサロバも大きな役割を果たし、11月2日-3日の「ワールドグループ」決勝でスペインを「3勝1敗」で破って初優勝を決めた。ナギョワ自身は、2003年11月のタイパタヤ市大会が現役最後の優勝になった。2006年7月、ヘンリエッタ・ナギョワは27歳で現役を引退した。
ナギョワは引退から5年後の2011年に下部ツアーであるサーキット大会のダブルスに出場した。5大会に出場し2勝5敗の成績を残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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