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フリードリヒ・パウルス : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ・パウルス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリードリヒ・パウルス : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ・パウルス[ちょうおん]

フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)は、第二次世界大戦期のドイツの軍人、陸軍元帥スターリングラードに包囲され、ソ連軍の捕虜になった。
== 生い立ち ==
1890年、ドイツのヘッセン州ブライテナウの下級役人の家に生まれた。最初海軍将校を目指したが断られたため、1909年にマールブルク大学で法学を学び始める。しかし半年で退学し軍に志願、士官候補生としてラシュタットの歩兵連隊に配属される。翌年少尉に任官。
1912年、士官学校同期のきわめて古い家柄のルーマニア貴族の妹と結婚する。パウルス夫妻は三児をもうけた。ドイツの将軍や将校は貴族階級の出身者が多く、貴族階級を示す「von」を持っていたが、彼はそうではなかった。勤勉さを賞され1913年に大隊長副官に任命される。
第一次世界大戦では当初西部戦線に従軍、しかし赤痢のため翌1915年まで入院していた。その後イタリア戦線バルカン半島で従軍、さらに再び西部戦線に戻ってヴェルダンの戦いに従軍。その後再びルーマニア戦線に移動し、1917年にはイタリアでイゾンツォの戦いに従軍、1918年の終戦時には西部戦線のフランドルに居り、階級も大尉にまで昇進していた。この大戦中の病気のため、彼は生涯病弱気味であった。また一級鉄十字章を受章し精鋭部隊に属していたことから、エリート意識が強くなった。
終戦後義勇軍に属し、ドイツ東部でポーランドとの国境紛争に従軍。しかしそこでは人事担当で前線には出なかった。翌年ヴァイマル共和国軍に採用される。翌年の右翼蜂起であるカップ一揆に同調したが、出世に影響はなかった。
1924年に第13連隊で中隊長を務め、初めて部隊指揮官となる。当時の中隊長の同僚に機関銃中隊長エルヴィン・ロンメルがいた。1931年まで師団の戦術教官を務め、その能力が注目されるようになる。
同年ベルリンの陸軍大学に異動し戦術教官となる。そこでナチスの政権獲得を経験するが、彼がどういう姿勢だったかはよく分かっていない。ただ貴族出身の妻はナチスを嫌っていた。
1934年、第3自動車中隊長に補される。1935年、ドイツは再軍備を宣言、ドイツ国防軍の強化に乗り出す。これにはパウルスも賛成していた。同年大佐に昇進、自動車化部隊の参謀長となる。1939年はじめに少将に昇進し、エーリヒ・ヘプナーの第16軍団の参謀長に就任。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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