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フリッツ・ジュベール・デュケイン : ミニ英和和英辞書
フリッツ・ジュベール・デュケイン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリッツ・ジュベール・デュケイン : ウィキペディア日本語版
フリッツ・ジュベール・デュケイン[ちょうおん]

フレデリック・"フリッツ"・ジュベール・デュケイン(Frederick "Fritz" Joubert Duquesne, 1877年9月21日 - 1956年5月24日)は、南アフリカ出身の軍人、狩猟家、ジャーナリスト、作家、スパイ第二次ボーア戦争ではボーア人側に立って従軍し、その後の第一次第二次世界大戦ではドイツ(ドイツ帝国ナチス・ドイツ)のスパイとして活動した。その経歴を通じ、彼は南アフリカ、大英帝国、南アメリカ、アメリカ本土などで様々な諜報活動およびサボタージュ作戦を展開した。
デュケインはしばしば新たな偽の身分を作り、自らが貴族の末裔であるとか、多数の勲章を受けた戦争の英雄であるなどと虚実を織り交ぜて宣伝した。
==若年期==
1877年、ケープ植民地イースト・ロンドンにて父アブラハム・デュケイン(Abraham Duquenne)と母ミーナ・ジュベール(Minna Joubert)の元に生を受ける。ユグノー派のフランス系ボーア人の家系であった。その後、家族はトランスヴァール共和国ニールストロム(現在の南アフリカ・)に移り、農園を始めた。父アブラハムは現地人を雇い農場を拡大する傍ら、猟師として革や牙、角などを各地で売り歩いた。フリッツ・デュケインには、エルスベット(Elsbet)という妹とペドロ(Pedro)という弟があった。彼はユグノー派のフランス海軍士官の子孫にあたり、また彼自身が主張するところでは第一次ボーア戦争の英雄でトランスヴァール共和国軍総司令官だったピート・ジュベールは叔父にあたるという。フリッツ・デュケインの血縁関係の実態については未だに議論がある。
若きフリッツ・デュケインは父に倣って猟師を志した。彼はアフリカの平原で類稀な狩猟の能力を発揮しただけではなく、後には大物狩猟(big-game hunting)に関する記事を執筆したり、講義を行うなどしている。猟師として生活している時、彼はに対する関心を抱くようになった。黒豹が用心深い獲物であるケープバッファローを狙う時、この獲物が水を飲もうと水たまりに近づいて無防備になるのを辛抱強く待つ姿をデュケインはしばしば目にしていた。そして黒豹は彼にとってのトーテムとなり、また狩猟のスタイルにも黒豹に学んだ辛抱強さが反映されていったという。後の第二次ボーア戦争にてデュケインは「黒豹」の異名で知られることとなり、スパイ活動に従事した1930年代にはドイツに送る報告書にしばしば怒りに毛を逆立てた猫の絵を描いていたという。
フリッツ・デュケインが初めて人を殺したのは12歳の頃だった。ズールー人が母に襲いかかってきた時、デュケインはその男が手にしていた短剣を奪い取り、腹を刺し返り討ちにしたのである。この事件の直後、バントゥー系民族勢力によるニールストロムへの攻撃が始まり、デュケイン一家は川沿いに避難することを余儀なくされた。デュケインおよびその他の6つの入植者一家は(ズールー人の戦士)との銃撃戦を行い、この中でデュケインはさらに何人かを殺害したとされる。この戦いでデュケインの叔父クーズ(Koos)とその妻、生まれたばかりの子供が死亡している。
13歳になるとイングランドの学校に入れられた。伝記作家クレメント・ウッド(Clement Wood)によれば、この学校を卒業した後にデュケインはオックスフォード大学に1年だけ通い、それからに入学したとされる。ただし、これらの教育機関にはデュケインが出席していたという記録は残されていない。またデュケイン自身が語ったところによれば、卒業後は工学について学ぶべくヨーロッパへと送られたが、道中の船で出会ったクリスティアン・デ・ブリーズ(Christian de Vries)という男と意気投合し、そのまま2人で世界一周に向かうことに決めたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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