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フリッツ・クライスラー : ミニ英和和英辞書
フリッツ・クライスラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリッツ・クライスラー : ウィキペディア日本語版
フリッツ・クライスラー[ちょうおん]

フリッツ・クライスラーFritz Kreisler, 1875年2月2日ウィーン - 1962年1月29日ニューヨーク)は、オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト作曲家である。後にフランスを経てアメリカ国籍となった。ユダヤ系。本名はフリードリヒ・クライスラー(Friedrich Kreisler)。
== 生涯 ==
ジークムント・フロイトと親しい医者(町の開業医)の子としてウィーンに生まれる。父親は大の音楽好きで、アマチュアの弦楽器奏者でもあった。その父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを習い始めたが、あまりにも飲み込みが早く、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学してヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世に演奏を、アントン・ブルックナーに作曲を学び、10歳にして首席で卒業した。在学中、楽院を訪問したヨーゼフ・ヨアヒムらの大家の演奏を聴き、さらに感性を研ぐこととなった。その後、パリ高等音楽院に入学、12歳にして首席で卒業した。
1888年アメリカボストンで初演奏会を開いて成功を収め、翌年オーストリアに凱旋帰国する。帰国後は「神童」としてもてはやされることを望まなかった父親の勧めで、一般教養を身につける意味もあり、高等学校に進学する。高等学校では医学を勉強するが肌に合わず、本格的に勉強するまでには至らなかった。
1895年にはオーストリア帝国陸軍に入隊、親衛隊に配属され、予備役ながら将校に任官する。一時はヴァイオリンを捨て、軍人になろうと決心したこともあったが、家庭の都合で除隊の後、音楽界に復帰する。復帰後、再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始していった。クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けたこともあったが、「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落とされている。この頃から、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始めることになった。
1899年アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演する。この公演はウジェーヌ・イザイに激賞され、成功裏に終わり、クライスラーの演奏活動はこの頃から軌道に乗り始める。1902年にはロンドン・デビューを果たし、成功を収める。それに気をよくし、しばらくの間はイギリスを本拠地として活動する。同年にはニューヨークで結婚する。この頃からレコーディング活動も始める。1901年初夏、アメリカからヨーロッパに戻る船の中の理髪店にて、アメリカ人のハリエット・リースと知り合い、船内で婚約、翌1902年冬にニューヨークで結婚式を挙げた。ハリエットはブルックリンの裕福な煙草商の娘だったが離婚経験者であり、音楽や楽器の知識や技能はあまり無かったが、クライスラーの性分やその音楽の才能を把握して理解した、外交的で抜け目無い有能なマネージャーとして彼を支える事となった。ハリエットはクライスラーに対して音楽に関係ないことをやらせず、決められた時間が来るまで部屋に閉じ込めて練習させるなど徹底してクライスラーの生活を厳しく管理し続け、対外的には演奏会のギャラの値上げ交渉を行うなどし、尚且つ自分は演奏会の際は楽屋で夫の帰りをひたすら待つなどしゃばり過ぎない言動をし、結果的にそれはクライスラーが音楽家として大成する一助となった。
1914年に勃発した第一次世界大戦では陸軍中尉として召集を受け、東部戦線に出征するが、重傷を負って後送され、間もなく名誉の除隊となった。除隊後はニューヨークの自宅に戻り、療養しながら演奏活動を再開する。しかし、アメリカにとってオーストリアは敵国だったため、活動はあまり軌道に乗らなかった。
大戦終結後はヨーロッパ楽壇に復帰する。この頃から、マネージャーが同じだったことからセルゲイ・ラフマニノフと親交を深めてグリーグの「ヴァイオリンソナタ第3番」などの録音を残した。ラフマニノフはコレルリの主題による変奏曲をクライスラーに献呈すると共に「愛の喜び」と「愛の悲しみ」の2曲をピアノ独奏用に編曲している。一方、クライスラーはラフマニノフの歌曲にヴァイオリンのオブリガードを追加した編曲を残している。
1923年には来日を果たしている。1924年から1934年までベルリンに拠点を置いていたが、ナチスが政権を獲得すると状況は一変する。クライスラーは最初、大衆的人気に目を付けられ、同じユダヤ系の指揮者レオ・ブレッヒ(彼と録音したベートーヴェンヴァイオリン協奏曲は、クライスラーの名盤の一つに数えられる)ともどもドイツへの残留を要請されるが、断固拒絶した。1938年オーストリアナチス・ドイツ併合されたのを機にフランス国籍を取得し、パリに移住した。
1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、1943年にはアメリカ国籍を取得する。以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。アメリカ国籍取得の2年前には交通事故で重傷を負い、一時は「再起不能」とも伝えられたが、奇跡的にカムバックする。放送への出演やリサイタルを断続的に行うも、負傷の後遺症(視力障害や突発的な記憶喪失などで、音楽的な感覚は奇跡的に障害から逃れた)が尾を引いたこともあり、1950年に引退した。1962年、ニューヨークで心臓疾患のため死去し、ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。
金に困っている若い演奏家に、自分の持っている楽器を気前よく分け与えるなど、陽気で気さくな性格であったという。また、楽器や美術品の蒐集でも知られていた。引退後にそれらのほとんどを手放しているが、ブラームスヴァイオリン協奏曲の自筆原稿とショーソンの「詩曲」の自筆原稿は手放さず、後にアメリカ国会図書館に寄贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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