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フランスの宇宙開発 : ミニ英和和英辞書
フランスの宇宙開発[はつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランス : [らんす]
 【名詞】 1. lance 2. (n) lance
宇宙開発 : [うちゅうかいはつ]
 【名詞】 1. space development 
: [ちゅう]
 【名詞】 1. space 2. air 3. midair 
開発 : [かいはつ]
  1. (n,vs) development 2. exploitation 
: [はつ]
  1. (n,suf) (1) departure 2. (2) beginning 3. (3) issued by (e.g., document) 4. (4) counter for gunshots 

フランスの宇宙開発 : ウィキペディア日本語版
フランスの宇宙開発[はつ]
フランスの宇宙計画ではフランスにおける宇宙開発について述べる。
フランスでは民間用と軍用の活動の両方について宇宙開発を進めている。大きな契機となったのは大統領シャルル・ド・ゴールが独自の核投射戦力としてミサイルを欲したことであり、これによりフランスのロケット開発が加速され、1965年のディアマンロケットによる衛星打ち上げで世界で3番目に人工衛星の打ち上げ能力を保有する国家となった。
その後、米ソ宇宙開発競争の中欧州共同の開発計画が持ち上がり欧州ロケット開発機構(ELDO)、欧州宇宙研究機構(ESRO)に草創期から参加した。
現在も欧州の宇宙開発の中心的役割を担っており、欧州宇宙機関(ESA)への最大の資金拠出国となっている。
== 歴史 ==

=== 前史 ===

1927年から1933年にかけて、砲兵将校であったジャン=ジャック・バールはフランスの宇宙開発の先駆者であるロベール・エスノー=ペルトリと共に個人的にロケットの研究を行っていた。1935年には陸軍省との契約下で研究を行い、第2次世界大戦前には16kgの対空無誘導ロケット弾の開発に向いていた。フランス敗北後もでEA1941〔EA:推進装置〕と呼ばれる研究を続けた。このロケットは重量100kg、長さ3.13m、直径26cmで100km先に25kgの重量のものを運ぶことができた。これは窒素で加圧された液体酸素と石油エーテルを燃焼させることで推力を得るものだった。戦争によって中段があったものの、1945年から1946年にはロケットの試験が撮影され7回中3回が成功している。
第2次世界大戦終結後、ドイツを占領した各国はドイツの新兵器であったV2ミサイルの情報を回収し始め、V2ミサイルの技術は戦後のアメリカのレッドストーン、ソ連のR-1製造など世界のロケット開発競争に繋がることとなった。フランス軍備研究局(DEFA)もまたドイツからの資料を得て、イギリスが追求をあきらめたペーネミュンデ系のドイツ人技術者をヴェルノンに招聘し、(LRBA)を設立、陸軍の将来ミサイルの開発を行わせることとした。ジャン=ジャック・バールもLRBAに参加したほか、ドイツ人研究者にはアリアンのバイキングエンジンを生み出したハインツ・ブリュンゲル磁気軸受を開発した(Helmut Habermann)も含まれていた。
欧州での第二次世界大戦終結後のわずか1週間後の1945年6月12日に戦時中のドイツで開発されたロケット技術を入手するためのCEPA (Centre for Study of Guided Missiles)が設立された〔。1946年の5月から9月にかけてフランスはこの目的のために30人のドイツ人技術者達を雇用してヴェルノンにLRBAの施設を設立した。1946年8月にこのグループは既に後にアリアンロケットへと発展する液体推進系の開発に着手していた。2段階の計画が策定された。先ずはフランス国内でV2ロケットを量産と試験施設が必要だった。そこではV2ロケットの発展型であるA8の開発と量産が予定された〔。1946年11月にアルジェリアのColomb-ベシャール近郊の施設がV2の飛行試験のために選定された〔。試験は順調に進むかに見えたが、1947年初頭にアメリカとソビエトがフランスが必要とした30機のV2の取得を阻み、そのため、アルジェリアで飛行試験を開始する事が出来なくなった。LRBAのドイツ人技術者達は4211計画の一環でフランスがA8の飛行試験を実施できるように開発を支援した。並行してジャン=ジャック・バールのチームは4212計画の一環として純粋なフランス製ロケットであるEA1941の開発を進めた〔。
A8を基に計画されたシュペールV-2ロケットは外見こそV2ロケットに似ていたものの、推力は40トンに強化され、戦略兵器として有効な推進剤はケロシンと常温でも貯蔵可能な硝酸酸化剤として使用するものになった。開発は主に理論面と硝酸の取り扱いと推力40トンのエンジンのガス発生器の地上試験が実施されたが、予算を並行する2計画に投じることは出来ないという政府の判断により、試作機を製造するための予算は拠出されず、1948年にシュペールV2計画は中止され、4トンの推力のエンジンを備えた1/10縮尺の縮小版のヴェロニク/4213計画になった〔。
LRBAの任務はV2の改良であった。1946年から1949年にかけてドイツのフランスの占領地でドイツ人技術者達に開発を進めさせた〔Super V-2 〕。A8の計画を基にしたシュペールV-2と呼ばれた改良型V2では製造が簡素化され、タンク構造とより剛性の強い特殊鋼の採用でエンジン推力を40tに向上させ、射程を700kmに向上させる計画であった〔。しかし、軍はLRBAにソ連爆撃機の脅威に対抗するべくパルカ(Parca)長距離対空ミサイルの開発を要請し、DEFAは1949年に計画の棚上げを決定した。対空ミサイル計画は試作機が要求を満たせない状態が続き、1958年にアメリカのホークミサイルのライセンス生産が決定で計画は停止されたものの、行われた追跡装置やアクチュエーターの研究はホークに対するLRBAの関与を深めることができた。
1946年、バールは1000kmの距離に300kgの重量の弾頭を投射できる弾道ミサイルの試作機の開発を始めた。EOLE〔Engin fonctionnant à l'Oxygène Liquide et à l'Ether de pétrole:液体酸素石油エーテル推進エンジン〕と名づけられたロケットは、EA1941の経験を生かした全長11m、直径80cm、重量は4.3トンのロケットであった。1950年から52年にかけて台上試験が行われたが試験機が爆発し、石油はエチルアルコールに置き換えられるなど変更が加えられた。バールはその後、ロケットを21mの斜面から打ち出さなければ、離陸時の安定に十分な速度に達することができないと気づいた。解決策が模索され、実際の打ち上げ試験も行われたが、問題の解決を見ないまま計画は1952年12月に停止し、液体燃料ロケットの開発も中断した。
一方、バールのチームと並行して開発を進めていたドイツ人の技術者のチームは1949年により技術的難易度の低い推力4トンの液体燃料エンジンを搭載し、高度100kmの弾道飛行中に60kgの科学装置を運ぶことを目標としたヴェロニクロケットを開発した。誘導システムを持たず、推進剤加圧システムにターボポンプがないなど簡素化が行われたものの、当初は不安定燃焼の問題に突き当たった。しかし、1954年に解決を果たし、アルジェリア南部のアマギールから試験機の打ち上げが行われた。以後、こちらがフランスのロケット開発の主流になる。
その後、国際地球観測年の一環として上層大気の研究が行われることとなり、より強力なヴェロニクAVIが作られた。これは200kmの高度に装置類を投入することを目的とした。予算上の理由から初打ち上げは1959年3月7日に行われた。これは失敗だったものの3日後に行われた2号機は137kmの高度に達し、上層大気で風を測定する化学的実験を行うことができた。同型機は1959年から1969年までの間に48機打ち上げられ、81.5%の成功を記録した。続いてヴェロニクAGIが開発され、生き物への加速度や振動の影響を研究するために利用された。ヴェロニクAGIは高度365kmに到達している。
1950年代中盤になるとより強力なロケットの開発が始まり、長さ10m程度、質量5トン、硝酸テレビン油を推進剤として16トンの推力を持つヴェスタの開発が始まった。ヴェロニクで発生した諸問題も解決され、400kmの高度に500kgのペイロードを輸送できる計画であった。これは1962年にフランス国立宇宙研究センター(CNES)に移管されたが、新プログラムの開発を優先させるために、1965年から1969年にかけて5発のみが打ち上げられた。
1950年代後半、ドイツの経済発展によってLRBAに所属していたドイツ人技術者の大半が帰国してしまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランスの宇宙開発」の詳細全文を読む




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